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リービ英雄『千々にくだけて』(講談社)

 2001年の夏の終り、アメリカ人日本文学作家の著者は、アメリカ・ニューヨーク行きの飛行機に乗る。直行便ではなく、経由便で。カナダのバンクーバーで乗り換える予定だったが、バンクーバーに到着すると、アメリカの国境は全て封鎖されていた。「アメリカは、徳川時代の日本のようになった」。著者は一週間、アメリカでも日本でもない国に足止めされる。このような形で、著者はあの出来事を体験したのだった。

  著者はその時の経験を書きとめるために、吸ったたばこの数も正確にスケッチする。小説という形で。

  どこかで坂本龍一が書いていたが、あの出来事のあと、ニューヨークではしばらくの間あらゆる音楽が沈黙してしまったという。 確かに「千々にくだけて」の世界も無音である。 ただ、主人公がニューヨークにいる妹に何度かけてもつながらない電話の話し中の信号音と、テレビから聞こえてくる「千々にくだけた」英語の断片を除いて。彼は、evildoersやinfidelsといった言葉を「悪を行う者ども」、「異教徒ども」といった日本語に移しかえながら、その不自然な日本語の違和感を確かめる。

 おそらく著者にこの小説を書かせたのは、その時経験したことを言葉で――しかも日本語で――書きとめようとする作家の本能だけではあるまい。反戦というにはあいまいな、「今の大統領」が代表する一部の保守的なアメリカ人に対する嫌悪感であろう。

 「かれらは、何ごとにもさらされていない。そのおだやかさは、十一日に見た映像とはあまりにも質が違っていた。…/かれらのために、誰が死ぬものか。/とつぜんの思いが胸に上った。日本語の思いであるという意識すらなく、上った」。

  著者はあの光景を見て、どんな日本語が浮かぶかということを考えたという。そして、浮かんできたのは、松尾芭蕉の松島を詠んだ「島々や千々にくだけて夏の海」という俳句だった。著者は「千々にくだけて」という古い日本語の力を借りて初めて、新しい状況についてのひとつの物語をつくりえたのである。

2005年5月22日(「南日本新聞」掲載)