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柄谷行人『近代文学の終り』(インスクリプト)

 著者によれば、「近代文学の終り」とは、小説の終りである。なぜなら、「小説が他のジャンル〔詩歌や戯曲など〕を制覇したということが近代文学の特徴」だからである。

 それまでたんなる娯楽のための読み物であった小説に、近代以降、「哲学や宗教とは異なるが、より認識的であり真に道徳であるような可能性」が見いだされた。小説は、反宗教的に見えるが、制度化した宗教よりも宗教的であり、無力で反政治的に見えるが、制度化した政治よりも革命的であり、虚構であるが、真実といわれているものよりももっと真実を示す、と考えられたのである。

 しかし、テレビを中心とした大衆文化の発展とともに、文学が先端的な意味をもたなくなり、文学の地位や影響力が低くなり、文学はかつてもっていた社会的知的インパクトを失った。端的にいえば、読者がいなくなったのである。

 映画、テレビ、ビデオ、マンガ、コンピュータによる映像や音声のデジタル化といったオーディオヴィジュアル文化の時代に、「活版印刷の画期性によって与えられた活字文化あるいは小説の優位がなくなるのは、当然といえば、当然」である。

 倫理的、政治的、知的課題から解放され、自由になった文学は、ただの娯楽(『ハリー・ポッター』のようなもの)になる。ただし、文学を自らの批評のベースにしてきた著者はそのことを悲観していない。

 「小説あるいは小説家が重要だった時代が終った」、「文学によって社会を動かすことができるように見えた時代が終った」ということは、「端的な事実」(「その残影があるだけ」)であり、むしろ「われわれがどういう時代にいるかということを考えること」こそが重要である。

 文学以外の場所で「文学」(倫理的、政治的、知的課題)を継承することが文学者に残された道なのかもしれない。

2006年3月29日