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創造力は年齢とともに衰えるのだろうか?

 

広く人々に知れ渡っている見解において、人間の創造力は、年をとるごとに衰えていくとされている。アルバート・アインシュタインは、若干26歳にして創造的な大発見である量子論を発表し、その偉大なる功績によりノーベル賞を受賞した。アインシュタインは、後にこう述べている。「30歳までに科学において偉大な業績を成し得なかった人間は、これから先も、そのような業績は成し得ないだろう」、と。彼の述べている事は正しいのだろうか。創造力というものは、年齢とともに衰えるのだろうか。

年齢と創造力の関係についての問題は、もちろん、速いペースで進んでいく世界の中で時代遅れになることを恐れている個人にとって重要な問題である。また、この問題は社会にとっても重要なことである。たとえば、フランスの人口統計学者アルフレッド・サービーは、「老朽化した家の中で、時代遅れの考えに堂々巡りをする高齢者」というような結果が、高齢化社会にもたらされるだろうということを危惧している。これから先、数10年後には、アメリカの人口はますます高齢化するだろう。労働人口は、企業がさらに創造的にそして競争的な機能を改善するために新しい方法をおしすすめているような時代背景の中でますます高齢化していくだろう。私たちは、中高年の労働者が創造力や独創力を働かせることを期待できるだろうか。あるいはまた、彼らが新しい考えに抵抗することを期待できるだろうか。科学者たちの平均年齢が上がることで、アメリカの科学的な創造力に何が起きるだろうか。これらの問題は,高齢化しているアメリカの中で「衰退の恐怖」を予想している人々を不安にさせている。年齢と創造力についての議論は、アメリカの未来にとって重要である。

 

創造力の性質

おそらく、判断力のある多くの社会科学者たちは変わりゆく社会変動に伴って、創造力が年齢とともに衰えるのかどうかを見極めようとしてきた。彼らは調査の中で、いくつかの現実的な障害に直面してきた。その障害とは、最も基本的なものであり、共通に受け入れられるような“創造力”の定義をめぐってのものである。なかでも、認識機能である知能は、とても正確に指摘しやすい。

 

創造力,知能,知恵

より多くの場合、創造力は知能と関連している。特に、創造力は予期しない問題において、斬新でかつ独創的な解決法を思いつくための新しい課題、また能力を適用させる知恵、つまり“流動性知能”(柔軟な知能)と関連している(Horn1982)。流動性知能を理解する鍵は、多くの異なったパターンや解決法を考慮した問題解決における異なった考え方、あるいは一筋縄ではいかないような事への手引きであると信じられている。

別の見方では、蓄積された過去の経験と社会化を示す、“結晶性知能”がある(Horn1982)。流動性知能が抽象的な創造力の知能を示すのに対して、結晶性知能とは、あらゆる日常生活における実際的な専門知識の習得を示すといえよう。―─つまり、これは知恵のことである。

知恵のいくつかの要素は昔から知られている。ソクラテスまでさかのぼる哲学者たちは、バランスの取れた態度の中に知恵はあると主張してきた。その態度とは、誰も知らないことを知っているが、同時に疑うという行為によって無力化されないような態度である(Meacham, 1990)。知恵の特徴をあらわす他の凡例は、与えられた状況にある人の知覚を歪めるほどの超越した先入観のなかや、あるいは個人的欲求の中の可能性にあると思われる(Orwoll and Perlmutter,1990)。それ故、知恵には認識発達以上のものも含まれる。すなわち,知恵を獲得するには、「自我超越」と呼ばれている自己中心性からの、ある程度の分離と解放を必要とする(Peck,1968)。年を取った人々が、ある程度自己中心性からの分離を発展させることができるなら、その知恵を獲得できるのではないだろうか。しかし、もちろんのこと、知恵は年齢効果だけによってもたらされる普遍的で不可避なものであるとはいえない。単なる年齢効果以上のものであるが、具体的に哲学者たちは「それ以上の何らかの要素」がある可能性を認めようとしない。

 何人かの心理学者は、加齢に伴い、一方が低下すれば他方で増加するというような兼ね合いが、創造力と知恵の間であるのではないかと考えてきた。ビジネス界の専門家に対する調査からは、知恵と創造力は互いに正反対の位置にあることが実証されている。

その他の心理学者は、知恵、知能、創造力に関する認識過程は基本的に同じだが、異なる種類の人々においては、異なる使われ方をすると論じている。知恵をもっている人々は、あいまいなことに対して、高い忍耐力を持っている。なぜなら、彼らは、その不明瞭な事柄に信用できる判断を下すことが、どれほど困難かを十分理解しているからである。彼らは世界を「奥行きを持たせて」見ているのである。これとは対照的に、創造力を持った人々は、臨機応変に何か新しいものを生み出そうと探求する。本物の創造力は、現代の西洋社会の科学者がしばしばそうであるように、自身の利益のために目新しさに共感を持つことは必要としない。インド、中国、日本というような東洋の何人かの社会学者のなかには、晩年期が、精神の探求や芸術の習得において、ふさわしい時期だとみなしている人もいる。晩年期の解放は、個人の成長と創造力の増長の機会によって調和がとられている。「職場の儒者と隠居の道士」という中国の諺にあるように、定年退職した者の任務はおそらく、瞑想や伝統的な風景画を描くことも含まれるだろう。人生のステージにおけるヒンズー教の教義では、晩年期には、精神の洞察と知恵が最高点に達するとされている。

創造力をもつ芸術家が齢を重ね、ある程度の知恵を自らの製作過程に供給したら、何が起こるであろうか。その答えのヒントは、年齢を重ねながら作品を作り続けている芸術家たちを観察することによって見つかるかもしれない。偉大な一つの例として、オランダのレンブラントが挙げられる。彼のスタイルは年をとるごとに変化し、より深くなった。老いたレンブラントは、荒い筆の練習をして、描かれる人々の心の世界を描くことに、若い頃よりも夢中になった。もう一つの例として挙げられるのは、印象派のモネである。彼は70歳代になり、家にこもるようになってもなお、「睡蓮」を描き続けた。伝染病になったマティスも体が弱かった。彼は、自分の人生を蒸留し、単純で力強いものにしようとするものを作ることを支持し、絵を描くことをやめざるを得なかった。年をとった芸術家は、芸術に不可欠なものと基本的なクオリティを支持するために、技術の功績を捨てることができるかのようだ。我々は、年をとってからの“晩年スタイル”といったような成長ぶりを詩人のゲーテやイエーツにも見ることができる。これらすべての例は、人生の後半で創造のスタイルが変化し、あるいはより深いものになるという経験をしたいくつかの素晴らしい創造力ある精神を提案している。そして、これは知恵の蓄積がなければ獲得できないものである。

 

認識機能の測定

知能的創造力は、定義したり測定したりすることが難しい。しかし、心理学者達は人間の知能の測定をする際において長い経験があった。ワイズ尺度とは、世界的で一般的な知能の測定方法において最も影響力があるものだ。ワイズ尺度には、言語尺度と行為尺度があり、知能を査定することに結びついている。言語領域は理解力や算数、語彙の知識の習得に集中しているが、行為領域はブロックや絵のパズルの解決方法を生み出す力を測定する。知能とは実際に年齢とともに衰えるのか、ということについて討論がなされてきた。だが、年をとるにつれて知能テストの成績が悪くなるという一般的な共通認識があった。ワイズ尺度は、言語上の能力は安定しているが、行為上の能力は年齢とともに低下することをパフォーマンス・サブテストで示した。この永続的な二つの要素の違いは、“古典的加齢パターン”としばしば呼ばれている

 複数の一流の研究者は、“古典的加齢パターン”で年をとることが非常に憂慮すべきことだと警告した。彼らは実際の知能テストによって判断されることについて疑問を持っている。言い換えると、彼らは高齢者の知能を測定する方法として知能テストに妥当性があるのかどうかに関して疑問を抱いている。おそらく、テスト結果からは高齢者の知能の姿は実際のところ分からない。この論争はよく知られた感がある。近年知能テストの利用について聞かれることと、学問テストで少数のグループが劣った結果を出すことは同じ種類の疑問である。反対に何人かの評論家は、知能がわれわれの考えている以上に複雑で多次元的な能力を持ったものだと語っている。

妥当性問題への興味、あるいは「現実」を測定しようとする知能への興味は、年齢に伴って起きる可能性のある、積極的な認知発達があるかどうかという問題を心理学者たちに投げかけた。知能と高齢化についての長年にわたる議論は、知能を評価する従来の方法が、日常生活の要求にうまく対処する際に、成人が実際に使う技術に対して、今まで常に影響を受けにくかったという事実に対するより大きい評価を得た。この承認は何人かの心理学者たちに、年齢に適切な知能テストのような、新しいテストの方法を考案することに興味を持つように仕向けた。

 年齢とともに変化していく知能もしくは創造力を測るという試みは、非常に捕らえどころのないものを理解するようなものである。日常において、知能は一つのことを経験して得られる道理や情報に関係する以上の多次元的な能力である。また――「常識」と呼ばれる――日常的知能は、実用的な社会的判断に関係する。実用的な社会的判断とは、一つのことを抽象的に判断する以上のことである。今まで述べたことに関わってくることは、「日常での問題解決」や「人生設計における熟練」などと同類のものである。それらと同じ認知能力のいくつかは、知恵という言葉で表現されるようである。晩年におけるその知恵は、おそらくいくつかの性質の全く異なったものを含むようである。それは、不明確なことに直面したときの反省的判断であったり、(すでに与えられた問題を解決することに対して)「問題を見つける」という技であったり、ある人生における統合された能力であったり、最終的には、直感、もしくは感情を利用する可能性もあるかもしれない。そしてこれらのことは、ある具体的な状況を解決し得ることに影響を与えそうである。これらの性質を検査で測るということはあきらかに困難である。

おそらく今日、一流心理学者で知恵の研究をしているポールバルテスは、実際に知恵を測定するために心理学テストを発展させようとした。バルテスとその弟子たちは、次のような質問で成人向けテストを実施した。「14歳の少女が妊娠しています。彼女は何をすべきで、何を考えるべきなのか」、と。テストの採点において、バルテスはある特定の答えを探していなかったが、その代わり知恵を持つ人々がどのようにしてその難問を扱い始めるかを測定しようとした。バルテスは続いて、経験から得られるような実践的問題に対処することができる知恵を専門家の知識システムと定義づけた。その定義は常識的な知恵の理解と類似しており、生活していくうえでの不確実な問題に対応した、的確な判断から構成されている。もし、われわれがこのアプローチに従うなら、なぜ知恵が潜在的に、少なくとも年齢とともに増加していくのかということが理解できる。この理由は、情報処理の仕組みによって影響を受ける流動性知能と、これと対立するものとして、結晶性知能のような実践的な知識の間の区別にさかのぼると明らかである。

知恵を定義すること、あるいは測定することへのステップはまだ初期段階にあるが、その努力には見込みがある。

 

高齢化と創造力

 創造力や知恵を測定する努力は、年齢とともに退化する知能値の測定の原因と意味についての強い議論の文脈において引き起こされる。基本的に、その議論は“現実主義者”としての彼らの考えと、より楽天的な視野をもった人たちとの違いを非難する。楽観主義者の方では、何人かの人類学者は“晩年の神話”について話す人もいる。彼らは、知能が実際には晩年において全く衰える必要性がないと推測している。しかし、他方では、一流の人類学者はこのような結論を否定する。これらの“現実主義者”は“古典的加齢パターン”の中での流動性知能の衰えが、たとえ不愉快なものであろうとも受け入れられるべきであることを主張する。なぜなら、これが調査結果に基づく事実であるから。確かに、このような古典的加齢パターンに従わない個別的ケースを発見するかもしれない。しかし、“現実主義者”はそのようなケースが、概して標準的な行動の衰えの正統性を論駁しないと主張する。

もう一つの策によると、楽天主義者は“古典的加齢パターン”に対する他の解釈を持っている。一つのあり得る要因は、広く一般にそうでないけれども、高齢化による健康状態の低下であった。主要な研究の一つは、知能テストの実施において、一貫した相違が健康状態如何にさえよっていることを明らかにした。すぐれない健康状態、障害もまた退職を引き起こす傾向にある。そして、そのためにおそらく学習の機会が弱められている。知能の測定において、健康状態のような生物的変化や、定年退職のような社会的変化があり、それらを指摘することは重要である。これらのせいで、ライフコースとは無関係に、認知能力に変化を及ぼすかもしれない。古典的加齢パターンが真実ではないように、これらの生物社会的な要因を変化させることは可能かもしれない。今日、高齢期における人間の認知能力についての一般論は、決して完全なものではない。

 

 創造力と年齢のあいだのつながり

さきに本論文で私たちは、高齢化にともなう知能の変化を測定するために、様々な異なる測定方法が試みられている事の重要性を指摘した。若者や高齢者の集団のある時点を同時に見るクロス・セクショナルな研究と、長期間に及ぶテーマにそった時系列的な研究との間には、方法論的に基本的な違いがある。楽天主義者は、創造力の対象であり、年は知能のクロス・セクショナルなテストによって、年齢自体の違いではなくコーホートの特色による違いを明らかにするだろうと指摘している。これに対して十分な解答を得るには、知能の長期的なテストが必要とされるだろう。

知能と高齢化に関する研究のなかで、最大規模の研究成果の潮流は、シアトルの時系列的な研究である。そこでは25歳から81歳の、20歳以上歳の離れている個人を調査の対象としている。この調査によると、最も著しい知能の衰退は平均で60歳以降にやってくることが明らかになってきた。平均では個人間の違いが隠れてしまうが、時系列的な研究でさえ“古典的加齢パターン”が現れている。しかし、これらの調査から明らかになったことは、包括的な個々人の知能衰退という不可避の考えに挑戦する可能性である。さらに重要なことに、年をとった人々の知能の衰退を止めること、あるいは逆に促進させることは、訓練や教育のような明確な干渉によって可能である。認識についての干渉は、年をとってからも知能の衰退が、決して不可逆的であったり不可避であったりしないと証明する(Schaie and Willis, 1987)。

一般的に、クロス・セクショナルな研究は知能テストにおいて、年代順による年齢の影響を過大評価する傾向がある。その一つの理由は、知能において能力と無関係だということの影響がある。例えば、若者が知能テストを受けると、最近の学校での経験から非常によく知られたグループを形成するという、魅力的なテスト結果を示す。この研究は、グループとしての若者が、高齢者よりもはるかに少しの「テストに対する不安」を見せることを示した。さらに、その多くは年齢差別の偏見を受け入れ、そして年をとるにつれ知能が必然的に低下するということを高齢者自身信じている。高齢者は若者よりもいっそう用心深い傾向があり、それで彼らは知能テストに正しい答えを推測することにいっそう気が進まないのかもしれない。最終的に、最も重要な能力と無関係の影響の一つが、高齢者の現在のコーホートに平均して存在し、若者のグループが享受した公式教育の中にそれが欠けているのではないだろうか。

時系列的な研究によると、高齢者の成功しているコーホートは高齢者の高等教育の達成を反映して、知能テストの成績を向上させている。高齢者の間で、知能テストを受けた人の中の60%〜85%までの間の人は、創造力に変化がないままで、彼らの明確なテスト能力の成績を向上させている。「80歳以上の人ですら、テストに参加した30%と40%の間の者だけが、創造力の衰退に影響しただけである」というシアトルの研究報告がある。世界的な知能の衰退を意味しているのは、ごく少ない人たちだけの事であった。彼らの能力を引き出し、喪失を償う事によって、認識機能を最も効果的にすることが出来ると提案している。80歳代と90歳代の人たちは、まったく有能で、よく知られた毎日の状態のままでいる傾向があるというのが、おそらく一番重要なのである。だから、これら知能テストの成績の衰退は、想像していたよりも重要性(意義)がなかったのかもしれない。しかし、クロス・セクショナルな研究も時系列的な研究も両方とも、70歳代をすぎている人の間での“古典的加齢パターン”と同じような衰退を意味している。そして、一般に認識機能(作用)とは対照的であるが、創造力の研究は、管理するのが難しい。また、その問題は創造力を定義している。いくつかのこれと関連する研究は、別の観点からのテストで、年齢による創造力の衰退を見つけることになった(Alpaugh and Birren , 1977)。

これらのテストは創造力を測りうる完全で申し分のないものではないけれども、われわれはさらにより良く、より多くの有効な何かを当てにすることができよう。例えばモーツァルトの交響曲、ニュートンの万有引力論、トーマス・エジソンの電気装置の発明、若者のすべての功績といったもののように、われわれは優れている創造力を明確に実証する産物についての強い世論に依存することができる。この世論への手引きは、ハービー・リーマンによる創造力と高齢化の古典的研究によって正確にその方法が使われている。興味のあることに、リーマンは世論に認識されている創造力の曲線が、流動性知能の曲線のあとを正確にたどることを発見したことである。そして、二つの曲線は両方とも30歳後半でピークに達し、その後続くおのおのの10年から下落していくのである。

これと対照的に、リーマンの研究に対する批評家のデニスは異なったデータを見出した。そして、40歳代から50歳代の人々の大半は最も生産的な期間であることを発見した(Dennis, 1966)。しかしながら、デニスの結論は(貢献というものがどれほど重要かというような)質的な測定によるものではなく、(どれほど多くの発表がなされたかというような)生産力の量的な測定を基礎においていた。それゆえに、実際にデニスの成果がリーマンの発見を論駁しているということは明らかではない。また他に、科学的な創造力を測定することで、(リーマンが発言したのよりも遅く)科学者の生産力はここ40年間で衰えたということが明らかになった。そしてそれから50歳を超えるとゆっくりと衰えていった(Cole,1979; Diamond, 1986)。数学者の創造力を時系列的に研究するによって、次のことが示唆された。それは、若い時に偉大な研究成果を発表した数学者たちが、少なくとも中年期までは、継続して研究成果を発表し続けていくだろうという事実である。

 

 理由とその説明

この証拠は、年をとることが必ずしも認識の衰えを意味するものではないことを示している。それにもかかわらず知能テストの成績は低下している。心理学者はその理由について、年をとることによる速度の衰えが、知能テストの成績に負の影響を与えているという有力な証拠を引き合いに出して推測した。しかしその正確な理由は曖昧なままである(Salthouse, 1985)。

 年をとるにつれて、認識蓄積容量が衰えるのもまた明らかである。それは記憶するための未使用の潜在能力であり、いくらかの一定の時期に存在する。訓練による反応時間の調査は、情報処理能力の速さが年とともに一定の衰えを見せることを示した。高齢者は、例えば単純または複雑な選択の反応テストを出したとき、若者が出した反応時間の最高点の成績にまではとどかなかったSalthouse, 1985)。高齢者は蓄積容量に関係なく、記憶の技術を訓練しても、若者に匹敵するような成績に達しなかった(Baltes and Baltes, 1990)。結論として、認識蓄積容量とその他の生理学上の蓄積は年をとると縮小する。

楽観主義者たちは、流動性知能の能力は衰えるけれども結晶性知能は年とともに増える傾向がある、と指摘する。さらに、高齢者の認識能力の衰えは、年齢とともに身につけた専門的知識によって補われることがよくある。これは補償現象と呼ばれてきた現象である。言いかえれば、実用的な知識はスピードや流動性知能の衰えを埋め合わせる助けになる。例えば、タイプ・ライターを打つスピードの衰えに関わらず、年を取ったタイピストの中にはタイプ・ライターを打つ作業において、優れた能力を発揮する。これらの高齢のタイピストたちは、彼らが打っている原稿の先を読むことによって、スピードの衰えを補っているようだ。これはより効果的なタイプの打ち方の実用的な反応である。

人生の発達期間において、心理的特質は孤立した個人から現れるふるまいであると考えるべきではない。個人のふるまいはそれ自体の人生の過程においての社会的状況や構造に反映する。例えば、定年退職は、お決まりの仕事や退屈な仕事をしていると認識している人には良い結果をもたらす。一方、これとは対照的に複雑な仕事をしていた人にとっての定年退職は認知能力の衰えを加速させる。また人生の過渡期において心理的な特徴自体によっても強められることも真実なのである。例えば、中年期において態度が柔軟な人々は固定的な考えをもつと認識される人々より年をとるにつれて精神力の衰えの可能性が少ない。将来的には、年配の人々の連続したコーホートのための教育レベルの向上が、過去よりも能力の点において成人期を通して年を重ねることの差異をいわれなくなっているはずである。つまり、「年齢に関係ない」という方向に変わっているのである。

われわれはこのように、高齢化にともなう知能の衰退または安定について、どんなに広範囲に及ぶ一般化または不適任な要求に関しても懐疑的になるであろう。教育をはじめとする様々な訓練実験は高齢者の間で、知能の機能の衰退を逆転させることを可能にすることを示している。シアトルの時系列的な研究の中で、研究者は多くの参加者が精神面の能力の衰えは反転、逆転できると解明し、これらのケースの40%が訓練により利益を得て、その後少なくとも14年の研究の始めでそれらを測定したのと同等の高さに達したことが明らかになった。しかしながら、これらの結果への批判者は、単純に知能衰退の逆転がより多くの訓練によってもたらされるのかどうか、それとも高齢化によって引き起こされた本物の逆転できる変化を含んでいるのかどうかと疑問を抱いている。

人生全般にわたる知能と創造力の心理的な変化を考える際に一般的に年をとることと、高齢期に起こるであろう病を患いながら年をとること、この両者は区別する必要がある。高齢者の心理学研究は、新しいことを考えたり学んだりする能力と定義されている知能について高齢期でさらに成長する多くの柔軟性と潜在能力を持っていると実証している。60〜80歳までの健康な高齢者の集団データは彼らが繰り返し行う訓練から利益を得ていることを示しており、また若者より能力が勝っていることを示している。一連の研究は向老期の人々が記憶力の達人になるために、さらに鍛えられるという事実を示している。高齢者が何らかの刺激を受けた時、あるいは知能が奮起させられた時、この習得する能力はより鮮明に浮き彫りにされる。

 これらの実験は、老化による創造力や知能の衰えについての議論が、決して解決しないことを示した。次に挙げる本において、この議論の古典的な位置が示されている。ハーベイ・リーマンの“年齢と達成”の選集は、彼のいくつかの資料と彼の専攻の結論を提供している。リーマンへの激しい批判者であるウェイン・デニスは、創造力が年とともに必ず衰えるという主張を非難しようとしている。ディーン・サイモントンの記事は、リーマンが本を出版して以来の40年間の、年齢と創造力についての科学的な研究の最新の概要を提供している。リーマンの主張の事実に基づく点の多くは長年支持されてきたが、この主題における初期の議論の時点で想像されていた以上に、問題ははるかに複雑であることがわかった、とサイモントンは示している。ついに、ポール・バルテスとその同僚らによって執筆された本はおそらく、人生の後半における認識発達を研究した、最も著名な心理学者の視点を提供している。バルテスの後期の仕事は、高齢者のなかには“賢明”と呼ばれる高い次元の思考力を発達させている人もいることに注目している。われわれの注意をこの資質に向けると、それは高齢者の特徴のある知力となるかもしれない。バルテスと同僚らは、人生の後期の段階には特別な考慮と科学的な研究の新しい方法を必要とするに値する可能性があるかもしれないことを気づかせてくれる。

 

 人口の高齢化における創造力

私たちが寿命の増大や大きな規模での高齢化の証人になるのは、20世紀のことだけである。割合健康的で高い水準の教育を経験して年をとった、事実上たくさんの人々は、最近の10年間くらいのことに過ぎない。それゆえ、これから先、10年間の高齢者研究では、今日もしくはこれから将来の有能な高齢者の判断基準とするには適さないかもしれない。私たちは、個人の達成の例から望みを残している。

歴史的を振り返ると、年をとって傑出した貢献をした多くの創造的な芸術家を見つけることができる。71歳のときミケランジェロはローマの聖ピーターの建築家長に任命され、タイタンは80歳代で偉大な作品を描き、ピカソは90歳代で絵画やデッサンを生み出した。Martha Grahamは80歳代まで踊りつづけ、タンディは80歳でオスカーをとった、そしてGrandma Mosesは100歳を超えてなお描きつづけた。生涯教育と芸術のための機会を改善することによって、将来、今日では想像もつかない方法で高齢者の創造力の挑戦をするである。一度エリートに属していたことのある創造力を兼ね備えた高齢者は全てにおいてその機会を得ることができるようになる。そして、芸術家が特別な人間なのではなく、すべての人が特別な芸術家なのであるということが、芸術評論家のAnanda Coomaraswamyによって気づかれた。これらの期間の調査結果から見て、年齢と創造力に関する討論はかろうじて始まったのである。