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高齢期には意味があるのだろうか?

もしも長生きが人間という種にとって無意味であるならば、70歳や80歳までは生き延びない。人間の人生における晩年期もまたそれ自体重要性を持っており、単に人間の人生にくっついている哀れなオマケではない。

 

高齢期は人間に特有なものである。例えば第一に、野生動物の種の子孫が自らを産んだ高齢の親の介護をする様子をわれわれは見たことがない。逆に幼児期にある動物は、彼らが成熟期に入ると、まるでひな鳥が自分自身で巣立つように、両親を見捨てるのが典型的である。第二に、年長者を称えて介護を行ない自らの死を自覚している種は、まさに人間だけである。これら両者についてわれわれは尋ねる。いったいなぜか、と。

人類は、他者と共有された意味の象徴的な世界に住んでいる。そして、意味の力は死活問題である。例えば、戦争における勇敢さは、人々が自分自身の命を顧みずに、喜んで自己犠牲になり、家族、宗教、愛国心、あるいは他の何かのために犠牲になることによって示される。自我超越――エリクソンのいう世代性(ジェネラティビティ)――は、自己犠牲に限定されない。個人が自らの人生を卓越したことで何らかに目覚めることは普遍的な人間の能力である。人間は老いと死をじっと見詰め、過去と未来を研究し現在において自らの存在価値について問い掛ける。死を自覚しながら、あるいは高齢者への介護をしながらも、地球におけるわれわれの人生意義の深い確信を表現している。しかし、人口のかなりの割合を高齢者が占め続けているのは20世紀に入ってからの事であり、それゆえ、われわれの時代に高齢期の意義が問題となるのは当然の事である。

高齢期が如何なる意味を持つのかということは、個人的な問いと社会老年学への挑戦、この両方について関わりをもつ。個人的な問いとは、究極的には価値志向の問題である。例えば、人生の後半を価値あるものにするのは何か? これは抽象的あるいは哲学的な問題であるかもしれない。しかし、さきに検討してきた人生最後の決断についての議論にあるように、この問いは家族や精神科医などにとってきわめて実用的なものになる。高齢期の持つ意味の中心は、人生満足度か、あるいは高齢期における士気である。もし、年をとるという経験が次のような深い価値――例えば、自立への欲望、社会から尊重されること――を持たせる恐れがあるならば、社会と個人の両方は可能な限りこれらを避け、あるいはこれらを否定するようになるだろう。年老いることの否定、死の否定、これらが社会老年学の中心課題である(Becker,1973)。

こうして、ここに二つの問いが浮上する。最初の問いは、高齢期が果たして社会において意味を持っているのかということ。そして二つ目は、個人が人生の最後で、人生を意味深く、積極的に過ごしているか、ということである。もちろん、これらはいずれも互いに関連しているし、またいずれも社会老年学に異議申し立てするものである。キイとなる問いは、われわれが持つ高齢期の現実を説明できるエイジング理論が存在するかどうかである。そのエイジング理論とは、個人のライフ・コースや歴史を越えるような異なった社会的意味も含めて、高齢期の現実を説明できるものである。

 

エイジングの理論

 社会老年学におけるエイジング理論構築の如何は、高齢化における生物学の類似問題と比較することができる。進化論的生物学の逆説は適者生存の観点からなされており、それによれば、生物が出産といったような再生産の年齢を過ぎると、それ以上長く生きるための理由はないように思われる。つまり、(再生産の年齢が終わったような)高齢期は存在するはずがない。それにもかかわらず、人間は長い繁殖可能期間を過ごしている。人間は地球上の哺乳類のなかで実に最も長く生きている。

 高齢期の意味はこうして、さらに生物学上の問題にもなった。したがって、生物学者たちは全体的に多様な理論を提唱している。突然変異理論、エラー・カタストロフ理論、自己免疫性理論、などといったものである。各理論のなかで決め手となるものを証明するものはないが、それらのすべては私たちがエイジングの生物学をより深く理解できるように研究を刺激した。同様に、変化する状況と高齢期のもつ意味合いは社会老年学に多様な理論を引き出した。ちょうどエイジングの生物学については一つの理論が最良であるという意見の一致はない。しかし、以下に述べる二つの有力な理論は調査に値する。なぜなら、それらは全てのエイジング理論に影響を与えているという深い価値を証明しており、またそのエイジング理論は高齢期のもつ意味合いについての疑問と関係があるからである。

 

 解放理論

 定年退職の場合にみるように、高齢者と社会経験の両者を分離させる高齢期は解放理論の特徴を顕著に表現している。この解放過程は当然のことであり、基本的な生物学上の人生周期を反映している一般的な傾向として理解されている。言い換えれば、解放過程は“機能的”であると想定され、それは社会と個人の両方の要求に役に立つ。解放理論は近代化理論(社会がより近代化していくと、高齢者の地位が縮小するという考え)と関係がある。なぜなら、機能的効率の近代的概念――近代化された人生の周期や直線型レールに沿った人生設計――が根本的で自明のものであるのだから。

解放理論は近代社会において、高齢期の状況を説明するのに最も包括的試みのひとつであった(Cumming and Henry,1961)。その理論は、カンザス・シティの成人期の研究として知られている広範囲な調査の主要部として完成された。解放という概念は事実に基づく経験的な報告だけでなく、なぜその事実がそのようであるかということを説明する理論として存在する。解放理論は現在とは異なった1950年代の状況下において進展したその理論を指摘する人々を含めた社会老年学者らによって批判されている。解放は多くの高齢者の行動を正確に描写するのは疑いようもない。その適例は、早期退職の流行が続けられていることだ。しかし、多くの別のものがあるように思われる。たぶん、引退や解放として正確に描写することができない行動をとる数が増えている。それゆえ、行動パターンとしての解放はほとんど当然のこと、あるいは避けることのできないと判断することはできない。

 私たちが社会に有用であるという言葉の同意語になるはずである機能としての解放を描写するとき他の問題が発生する。例えば、予測できる強制退職や定年退職といった組織にとって機能的でかつ有用だと思われる同じような過程は、柔軟性のある退職を好む個人にとってもまた有用であるということを全く証明しないだろう。事実、定年退職を強いられることに対する多くの高齢者の憤慨は1986年の国会に強制退職をやめさせた。

そこにはまた、解放概念によって実際高齢者の如何なる行動が描写されているのかについての難しさもある。例えば、個人が職場といったような活動の一部から引退して、または家族や暇を追求して、他の活動にもっと時間を費やすかもしれない。少なくとも健康を維持している高齢者たちにとって今日の高齢期は、しばしば活動の裕福な範囲で満たされている。このような人々にとって引退はほとんどありえない。

 

 活動理論

解放理論と対極に位置する理論はエイジングにおける活動理論であり、そこで議論されているより活動的高齢者らは人生に満足しているといえよう。活動理論は次のことを仮定している。すなわち、私たちが自らの人生について考えることは、己の役割や諸活動の範疇に存在するものである、と。活動理論もまた、多くの高齢者がより早く確立したと認識される役割や生活の諸活動を継続していくことを認めている。何故なら彼らが(生活史から連続する)同じ必要性を持ちつづけているからである。似たようなことは、エイジングに関する継続理論によってもなされている。さらにその理論には、高齢者は、彼らが若い頃に発達させた趣味や人格、そしてライフスタイルを維持していく傾向があると記してある。活動理論と継続理論によると、社会的な相互作用が様々に減少することが、如何なるものであれ、より良いものとして説明される。なぜなら、それは以前の役割解放における機能的必要性が減少するためというよりも、むしろ高齢であることによる健康状態の悪化もしくは、障害を持つことに起因するためである。

これらの広大な主要部に関する調査は活動理論のいくつかの面を支持するようである。すなわち、継続的な運動、社会的雇用、そして生産的役割はすべて精神的健康と生活満足度に貢献しているようだ。他の調査はインフォーマルな活動もしくは社会的活動参加を単に自認することでさえ主観的幸福感を促進するうえでさらに重要であることを推測する。言い換えれば、活動や分離に関する私たちの考えや期待は私たちの形式的な社会参加形態よりももっと重要かもしれない。なにを「活動」として数えるかということは、客観的行動だけではなく私たちがどのように物事を見るかということに左右される。

もし、定年退職や年齢制限が実際の社会参加を不可能にするのなら、活動理論は人々が今までの人生においてあきらめてきたに違いないような役割や活動の替わりになるものを見つけることを示唆している。シニア・センターや、長期のケア施設によって奨励された非常に多くの社会活動は、もし高齢者が活動的でありかつそれらに関わりを持つならば、すべてうまくいくだろう。定年退職への「忙しい倫理」、およびその敵意は同類項で表される。そして、それらの感情は広く共有されたようにみえる。たとえば、『コスモポリタン』という雑誌の編集者である、ヘレン・ガーリー・ブラウンは、より年をとっている女性のための、『レイト・ショー』という彼女の自助本で、「仕事は、私達の麻酔だ・・私たちの生活の・・。私たちの自由は、痛みから来ている。評価を下す人からの・・。」と記している。また、同じように、随筆家であるマルコム・カウリーが「80歳の見方」という、エイジングにおける活動理論を著した本の中で、「おそらく、将来われわれの活動的な生涯は、この地球上におけるわれわれの最後の日まで、長く伸びるかもしれない。これはわれわれが最も望むところである。」と述べている。なにか病的理論の圧縮に似た何かを認知して、ここでわれわれは誤解されることはないだろう。中年期で活動的な多くの人々は、このような方法で彼らの高齢期の望みを果たすだろう。

 このように活動理論が魅力であるにも関わらず、これには考慮するべき問題がある。第一に、活動理論は後期高齢者(75歳から84歳まで)にとってというよりむしろ前期高齢者(60歳から74歳まで)により適用可能になっている。同様に、活動的なエイジング理論は、人生の後半について特別なまたは独特の何かを際立たせているというよりむしろ中年期の延長といったことが多くの点で見られる。もう一つのポイントは生物学的限界が自発的努力によってすべて克服することは出来ないということである。例えば、健康促進はアルツハイマー病を防止できる。弱い高齢者が行なう活動の或る側面だけを強調することは、交友関係、尊厳、あるいは人生の意義についてのセンスの役には立たないだろう。最終的には、近年の進歩にもかかわらず高齢者に対する楽観的シナリオが社会の障害になったままでいることは事実である。例えば、再婚は統計的に年配の男性より女性のほうが難しいし、また労働市場においても年齢差別は非常に現実的な障害で中高年者の再就職を妨げている。アメリカ合衆国の労働省によると40歳以上の労働者は「高齢労働者」と定義され、年齢差別は存在している。

 

サクセスフル・エイジング

多くの方法のなかで、活動理論の理想は最適条件で機能し続ける基準の変化を含むサクセスフル・エイジングの達成と予想される。(Rowe and Kahn1987)人生の後半部分における楽観的なイメージによると、認知的老化と肉体的老化のいずれも、精力的な運動や働くことによって埋め合わせすることができる。「使いなさい、さもなくば失うぞ!」というのがここでのモットーであり、人生観は「60歳を過ぎてからの性」から人生を通しての学習、第二の仕事やさらに第三の仕事、白髪頭のジョギングをする人が引退した地域社会の通りにあふれているというイメージのシニア・オリンピックはいうまでもなくすべてに適用される。

「あなたはただ自分が思っているぐらいしか年をとっていない!」というのは、アメリカ人の「やればできる」という態度に非常に当てはまる楽観的な見解を表している。人生の後半部分における精力的な期間や再雇用の上向きなイメージは、広告主によって助長され、私たちが先に議論したプロダクティブ・エイジングの理想と一致する。

老年学者たちは“サクセスフル・エイジング”を最近では非常に推薦している。部分的には、年をとることに基づく固定観念や老化とは衰退を意味するという想定には反対であるが。しかし、“サクセスフル・エイジング”という考えは人生の最後に起きることを否定することに基づいているはずはない。私たちは多くの欠損を受け入れなければならない。サクセスフル・エイジングは、避けられない損失を償う時間の間に残る能力、楽天主義を求めるのである。

                                                 

 心理的変化

高齢期は、健康、肉体や精神の能力、そして社会的ネットワークにおける様々な損失を伴っている。最もうまく年を取る人は順応し、そして高齢期の変化をより広い観点に向けることによってその損失を補っている。これは伝統的に「賢明さ」と呼ばれる態度である。

カンザス都市研究の研究者は年齢が進むにつれ、より多くの人々が内面に向かう傾向もあることを発見した。これは内面的な精神世界への注目が増えることを意味する。個人は中年期において、活動と達成についての関心が頂点に達することがあらわれる。彼らは老後の人生を心配するあまり、まるで高齢期においては役割喪失を見越しているかのように孤立するようになり、より「自我超越」に傾くかもしれない。

 このように理解すると、「解放」は必ずしも個人の現実的な行動を説明していないが、人生に対する心理的態度には当てはまるかもしれない。その上、すべての高齢者が内部的な解放という精神的立場に向かいたいと考える理由はない。何人かの人々は、彼ら自身の活力について、両面価値があるかもしれない。おそらく、その両面価値という文学における最も顕著な例は、シェイクスピアのリア王という、悲劇の運命であろう。リア王は、王としての役目をやめようとしたが、権力と威信から身をひくことができなかった。その結果、かれは家族に災難をもたらした。リア王の例は、解放はだれもがもっている仕事とは異なった、個人的な意味のいくつかの認識に依存していることを示している。分離でもどの年代でも、広く個人によって違うという問題がある。高齢期には、解放はある人々にとっては、よりよいスタイルになり、一方で他の人々にとっては、魅力的であり続ける活動を続けられる。

 

 役割の変化

 心理学者のカール・ユングは、個性化として第二の人生の半分を心理的な達成課題であると述べている。それは、中年期で社会的役割を遂行している人たちとは対照的に、高齢者はますます多く真なる個性化を獲得している。老年学者は、この晩年への移行を、役割喪失や役割断絶の問題として述べてきている。人生の早い時期における役割の失墜は、新しい役割に伴って起こるのが典型的であり、たとえば、ある家庭に子供として誕生し、その子自身が将来家庭を持って親としての役割を受け持つのである。しかし、高齢期において或る役割はやもめ暮らしかもしくは定年退職によって終止符を打つのである。

この状況に対する一つの反応は、高齢者の間で共有されるような新たな下位文化を形成することである。この考えは、エイジングにおける下位文化理論を喚起する社会学者らによって発展してきた。この理論では、高齢者はその集団に適切な社会的実践を発展させるような年齢仲間とともに過ごすことが最も心地よいとされている。この考え方を支える根拠は、社会活動や強い帰属意識の熱心な明細を推奨している定年退職者のコミュニティのなかに見出されてきた。

一つの社会学的な見地から、高齢期はより少ない役割として描写される可能性がある。かつて、それはエイジングを「社会問題」と見る必然的段階であると定義された。だが、異なった見解がここで可能である。別の社会学者は、個々人によって交渉され、恐らく絶えず再定義され、再構築されるようなインフォーマルな役割を維持するということこそが、高齢期とみなすとしている。言い換えると、主観的に経験豊かな老年期の意味は、人生の早い時期における典型的に将来を決定する行動に影響を与えるかもしれない配偶者、従業員、あるいは親のような外部の役割によって規定されないだろう。それとは逆に、人生の後半における自身の発達は、大いに個別の問題である。さらに哲学的な見地から、高齢期が実際に「遅い自由」の意外な形式として現われることができる。

 

 社会老年学への貢献

 ある通俗的な見方によると、社会老年学の研究テーマは集団活動、社会への関わり、そしてあらゆる種類の参加役割によって、高齢者が社会的に統合されるべきである点に在る。仕事や余暇を通して、そのねらいは常に自分以外の人たちと共に生活してしかも忙しく活動し続けることである。シニア・センターや老人ホームで働いている方々から、これらを垣間見ることができる。だが、もしわれわれが伝統的な自己発達以外の機会として高齢期の役割の欠如を見るなら、そのときは集団活動における社会的統合はもはや、強制的なすべて使い果たした目標ではない。ほかの価値のほうがより大切であると思われる。

 われわれはまだ社会的関係とか集団との繋がりにより勇気づけられるが、その形態は集団規範や活動に順応しているのではなく、個人発達や独特さに基づいている。そのような個人発達の例から、これが個人の自己表現を促進するための創造的な芸術的計画であることがわかる。また、個人が祈り瞑想することを中止にさせるようなものであることも判明する。最新の研究は、高齢期に現われる内面や個性化の可能性により、調和しているように思われる。勿論、熟考や集団活動がより望ましいかどうかということは、検討する余地を残している。それは正確に高齢期が意味を持とうと、特別な機会を提供しようとも、人生のほかの段階で容易に手に入れられる事について問題提起している。

この問題提起は、人生の最後の段階での共有された意味の分別を育てる人間の活動をさらに深く見ることにおいて、老年学を適切なものにしている(Cole and Gadow,1986)。宗教は一つの研究領域であるだろう。集団の成員である人々においては、高齢者は明らかに高い程度で宗教に関心をもっていると思われる。祈ることで神の救いを得ようとする宗教的実践は、人生の重要な行事で扱われるもっとも一般的に引用される手段である(Mature Market Report ,july 1988,p.7)。しかし、宗教的実践の様式は年代によって異なる。たとえば、Moberg(1972)は、年代が進むにつれて家の外での宗教活動は低下する傾向にあるが、その低下は宗教的感覚の増加によって補われることを発見した。宗教とエイジングの研究の体系は、自発的な宗教への参加が人生満足度へのカギとなるかという問題を長い間調べてきた(Blaser and Palmore,1976;Koenig,Kvale,and Ferrel,1988)。

これら一連の調査は、一部分では決定的ではないということを証明した。なぜなら、社会科学の調査は、典型的に、個人の生活における宗教の意味というよりもむしろ教会に参加することについて注目してきたからである。人生満足度についての質問紙票は、エイジングについての意味を知る、間違った方法かもしれない。宗教行動に注目している社会科学者の反対側の末端に位置するのは、神学者であり、彼らは、エイジングを精神の旅とみなし、その考えは人生の段階における伝統的なイメージを呼び起こす。これらの宗教やエイジングについてのあいまいな発見は、調査方法が外面の行動だけでなく、内面の経験もまたとらえるという承認へ導く。

 

結論:21世紀におけるエイジング

ライフ・コース論の観点は、社会の構造的状態を反映するような社会構造としての「人生の段階」と見られがちである。社会状況が変化するにつれて、個人にとっても異なる人生の段階において何が「適切」であるのかということも変化するだろう。すなわち、異なる人生の段階において何が適切かということに関する年齢規範や信条の弱点を考えるようになる。たとえば、定年退職後に大学へ戻るような場合、もしくは40歳で初産をむかえる女性の場合、これらの場合には厳密な年齢学における年齢にもとづいて行われる教育や仕事はもはや全く意味がない。実際のところ、高齢社会にとって魅力的な戦術の一つは現代社会の行なってきた形態として成年前期、中年期、高齢期といったような、段階という区切りの行動規範として関連づけられるよりも、むしろエイジレス――すべての人生の段階において教育、仕事そして余暇に従事するあらゆる年代の人々――のためによりよいフレキシビリティ(柔軟性)を紹介するべきであろう。

  現代のポスト産業社会において、高齢期の意味がどのように変化するのか定かではない。一方で、アメリカの高齢者は収入の水準、健康、そして政治上の権力を得ている、それを私たちは世代の公平な論争を巻き込んだ論点としての考えを検討した。もう一方では、人生の段階が徐々に進化してぼんやりとしたものになるにつれて、「高齢期」全体のイメージは、ライフ・コースの「年齢―無関係」というイメージにより席を譲りつつある。年代学的な意味での年齢は、それ自体予言価値やたくさんの目的の重要性を失う。

 このことは、人生の中で別個の段階にある高齢期それ自体がもはや何ら特別な意味や重要性を持たないということを意味するのであろうか。ここでわれわれは再び、人生において個人が意味を見出せるものと反対に位置するようなもの――社会が高齢期に帰する意味――これらの間を区別しなければならない。年齢がばらばらな社会においては、その独自性を高齢期にあることに帰することは難しい。そして、もし人生の最終段階において何も特別なことを見つけることができなかったら、高齢期における個人の意味は単に「同じことの積み重ね」である。すなわち、人生のより早い段階において作り出した意味がどんなものであろうともそれを続けていくことになるのだろうか。これらの質問に対する容易な解答はない。だが、なぜ「高齢期には意味があるのか」という問題意識は、社会老年学への挑戦と個人の価値観や自己概念の問題の両方ともに関わってくるのかということについて提言している。

この議論はエイジングに関する二つの理論――解放理論と活動理論――を識別し、そしてこのような理論が実際にはどのようにして反対の方向性を指摘している既存の価値を深く世論に訴えてきたかを示してきた。よりおおざっぱに言うと、高齢期が意味を持つかどうかという問いについて考えるとき、われわれは次の二つの基本的な選択肢に、繰り返し戻るだろう。一つは、中年期から高齢期への継続が、人生最後の段階に属する特別な何かを自己のなかに同一化できるようになることである。以下に続く文で、シモーヌ・ド・ボーボワールは中年期における活動との連続性だけが意味をなすと強く主張する人たちの考え方を述べている。他方で、カール・ユングは中年期の役割に無関心であることが望ましい道であると強く主張する人たちの考え方を述べている。エリック・エリクソンの 「重要な関わり合い」という概念はこれら二つの相反する概念の間のどこかに位置している。もう一つは、個人における高齢期の意味に関して根源的な理解の重要性を証明するフロリダのスコット・マクスウェルの証言がある。彼女の記述はもっと古くなるのを経験する人たちの主観的な光景を通してエイジングの意味を理解しようと努めることについての正当性を強調する。

以下の文章は、将来どうなるかということについて考えていく際、元気づけてくれる文章である。シモーヌ・ド・ボーボワールによる選択は、落ち着きや、超然としている期間の高齢期の伝統的扱い方を批評する哲学者の観点を与えてくれる。反対に、ボーボワールは、高齢期であってもそれ以外の時期であっても、人生に意味を与えてくれる新しい目標は、活動や献身を続けることだけだと信じている。最も有名な心理学者の一人であるエリック・エリクソンは、いくらか異なったアプローチをしている。エリクソンは、達成されるべき心理学的課題や特別な目的のある期間を、人生のさまざまなステージにおいて理解している。高齢期は人生の最高潮の部分を与えてくれるので他の段階とは異なっている。しかし、エリクソンは、高齢者が将来の世代の福祉との関連を通して、人生における最終段階の意味の意義を見つけると信じている。

カール・ユングは、人生において夢、神話、そして人間の個人の中に明らかにされたものとして無意識に心理学者の知恵が魅了されることを提供している。ユングは中年期から高齢期を通して、人生の半分の期間にその人自身の独特の性格と心理的挑戦を持たなければならないと主張している。ユングの見解によると、成熟はきちんと私たちが内部を変えるという自我超越と内省に関する時間なのである。私たちは、彼女の個人の日記からの選択を見る。フロリダのスコット・マックスウェルから読める中に、高齢になるにつれて世代内変化の記録がある。スコット・マックスウェルの気持ちと考えの豊かな記述は外側の活動が制限されるときでさえ、高齢者は人生の最後の段階で意味の強い意識を見つけることが出来るということを証明する。

社会の近代化は、多くの人々が歴史の中で以前よりも高齢期における大部分を過ごすことを可能にした。だが、同時に現代社会の特徴的価値の多くが人生の最後における何か特別な意味や目的を見つけることを妨げるようになった。近代化が高齢者の力を減少させるかどうかは疑問であるが、基づく意味によって分かれる人生の段階についての典型的な考え方を侵食する手助けになったことは間違いない。今日の結果は、高齢期の意味についての開放や不確実性の観念である。新しいアイディアや異なる考えについての開放は、ある種の人たちには該当しないが、ほかには適用される。将来は、不確かなのである。われわれの感情にかかわらず、将来の高齢期はわれわれが予期できない社会の慣習や個々人によって定義されるのであろう。