第二章 人間のライフサイクル:時期と発達段階

 

2002.10.09

 

人の人生の中で、基本的な順序というものはありますか?多くの人々はおそらく「ない」というでしよう。結局はそれぞれの人生は与えられた時間での行動のパターンと混沌とした特性のなかでの唯一のものだということです。しかし、ほとんどすべての社会のなかで共通にある2つの考えは、潜在的な明らかな変化とすべての生物に基本的に連続して起こる混乱を彼らじしんが、ここの方法で経験することをほのめかしています。

(1)   ライフサイクルとは、1年の中に四季があるように、そして、自然の多くの局面のなかで発展していく段階があるように、人生の中にも四季のようなものがあるだろうとするものである。

(2)   成長は、子供時代から成人期へと続けられるであろうという私たちの考えは今も根強い。子供時代の勉強は、大部分は子供の成長についてのものである。私たちが生物学的に、心理学的に、そして社会的に幼児期から成人期へと成長する方法について。成長はそのとき止まるだろうか?私たちの大人は発達上の原則に従って発展し、生きてはいないのだろうか?これらの質問は人間の科学の中で大部分は軽視されている。

私のライフサイクルと成人期の発達上の期間についての概念は、ある程度は現在の勉強の結果であり、そして終わりの一時期のためにとっておくものなのかもしれない。私はここで個々の生活について議論する。しかし、なぜなら個々の生活を調査し、理解することは読者に大局的な観点をあたえるからである。個々の生活についてその後の章の中で描写する。(翻訳係:有川、説明係:江副)

 

ライフサイクル

ライフサイクルの考えは、ライフコースのそれを越える。元々のライフサイクルの考えは隠喩的で、記述的とか概念とかではなく、基本的な像を維持するのに役に立つ。像は各個人の人生は独特で、みんな同じ基本の連続を通って来てはいるけれども、人間のライフコースの中の背後にある秩序をほのめかす。ライフコースは単純連続的な過程ではなく、質的に異なった段階や季節を経ている。季節が暗に示すものには多くの背景がある。一年の季節があります。春は花が咲く時期で、詩人達は若者にライフサイクルの春の季節をほのめかす。夏は季節の中で一番の情熱と成熟の季節だ。年配の支配者は冬のライオンである。一日の中にも季節はある。夜明け、正午、夕暮れ、真夜中。これらのものは、ライフサイクルの中にも他方とよくにたものがある。愛、戦争、政治、芸術の創造、病気にも季節はある。像は季節や区分の連続を通して、ライフコースを発展させる。互いの季節の変化や、移り変わりには一つのものから次のものへ移る必要がある。すべての季節は一部分であったり、全体に色づけされているけれども自分の時期がある。全ての季節には本来備わっているものがあり、その他のものよりもっと重要なのだ。互いに必要な場所を持ち、特別な特徴を全体に提供する。(翻訳係:且、説明係:出水)

 

生活周期の主要な時期は何だろうか。普通の文化も人間科学もどちらもその明確な答えを示さない。近代世界は確立されたが全体としての生活周期、そしてそれの構成面というー科学的、哲学的、宗教的、文学的なー概念をもたない。我々は青春期のあとの年齢レベルの連続物を述べるような言葉を持たない。我々は、例えば青春期、円熟期、中年期という言葉を使う。しかしそれらは年齢の輪やそのような意味で曖昧だ。その言葉の曖昧さは成人であることや、どのようにして人はその人生の中で成長していくかということの文化的、あるいは科学的定義のいかなる欠如にも根ざす。

  有力な視点では人生の方向を三つに分割する。(1)最初の20歳前後の部分はたいてい子供であるとされ、または幼少期と青春期であるとされ、または大人となる前の形成期であるとされる。(2)最後の部分は65歳前後に始まり、老年期として知られる。それは一般的に成人の一部として、またそれの続きとして、両方のとらえられかたをしている。色々な婉曲語法がある。年上の市民、または黄金期というように時々使われるが、人生周期の中でこの時期の深い不安を拭い去ることはできない。(3)これらの間に横たわる、無定形の時間は曖昧に成人期として知られている。(翻訳係:田畑、説明係:原田)

 

 子どもの成長の研究は、私たちの生活がますます個別化された状態になる普遍的な秩序や過程を決定しようと試みている。歴史的に、FreudPiagetのようなこの分野における偉大な心理学者は、成長を、私たちが大人になるまでの過程と考えた。つまり、成長は、思春期の終わりとともに停止することを意味するのである。この見解を与えられて、彼らには成人の成長の可能性、もしくは、ライフサイクル全体の性質を心配することについて、全く根拠がなかった。

 老人医学や老人学が、人間の人道的奉仕や研究の分野として確立された1950年代に、変化への起動力が起こった。不幸なことに、老人学は、ライフサイクルもしくは、成年期の成長の概念を生成して成功しなかった。おそらく、1つの理由として、それが介在している成人年を調査せずに幼年期から老年期に飛んでしまったからであろう。現在の私たちの老人に対する理解は、大人であることについてより多く知られているとき拡張されるだろう。後の時期は、それから、初期のものにさらに有機的に関連がありうるのだ。

 今世紀のはじめ、Carl G.Jungは、精神医学―つまり成人の人格形成の可能性に焦点をおくという心理学における、おそらく最初の現代的な発言をした人であろう。彼は、人格形成とは、私たちが成人として生活し、そして、家族、仕事および、共同体によって必要とされる責任を引き受け始めることができるようになるのに十分とはほど遠い、思春期の終わりまでに、簡単にはるか遠くへ進んでいくことはできないという立場に立った。Jungが言うには、20代・30代の内的奮闘では、「影」、そしてFreudが明るみに出した抑圧されている子どもの願望や特質というものを主にとり扱っている。40歳を過ぎてから、私たちは、中年まで比較的、原始状態を維持する多くの原型―つまり、自己の中の可能性を開発し始めるかもしれない。原型および自己は、中間の、そして遅い成年期に増加している重要性を当然のこととしている。(翻訳係:櫻井、説明係:轟木)

 

 ほぼ同時にオランダの人類学者アーノルド・バン・ジェネップはより社会的な見方からライフサイクルを調べた。彼の本『Rites of Passege(1908年初版)では誕生、死、結婚、離婚のような主な人生の出来事を取り扱っている。多くの社会は通過儀礼ーつまりある像もしくは集団から他へうつる人の動きを形作る儀式の折時ーを構成することによってこれらの出来事を取り扱っている。経過もしくは変わり目にいる人は、彼らがへたにも彼らが去る集団、同様に彼らが入る集団をまとめている、という理由で起こりうる社会への恐れの中にいる。社会については、儀式は社会の統制の形である:つまりそれらは個人をちゃんと独時の世代もしくは社会的地位で一員たることとして終結させ、安全に新しいものに安置させるようになることを確実にする手助けをする。個人については、儀式は変化が引き起こすような不安に対し増加する個人の統制に集団の媒体を用意する。

 人類学者バン・ジェネップははっきりとこの現象の心理学的様相よりその文化的なほうをより扱っていた。心理学者と精神科医は他の極端なことに行く傾向がある。相応な解釈は、結局は文化と個性両方ともに共同な考えを求めている。バン・ジェネップは主な人生の出来事や文化的枠組み内でおこっている経過の連続のようなライフサイクルを見ていた。この接近法はただ強調されている出来事よりもむしろ個性に注意することそして人生のコース全体を調べることを組み合わせなければならない。(翻訳係:西山、説明係:森園)

 

2002.10.16

 

 スペインの偉大な歴史学者であり、哲学者であるホセ?オルテガ??ガセットはその著書『Man and Crisis(1933年初版)でライフサイクルと歴史における世代の流れについて注目すべき概念を発表した。彼は個人と社会の両方の考察に基づいて、ライフサイクルの季節をそれぞれ表す5つの世代を確認した。すなわち、0歳から15歳までの児童期、15歳から30歳までの青年期、30歳から45歳までの創始期、45歳から60歳までの支配期、60歳以降の老年期である。人間社会において、5つの世代は全ていつなんどきでも集団的に共存している。各世代の生活は、その世代が存在している歴史における特定の地点によって決定づけられる。私達はそれぞれ、時が経てば次の世代へと移る。世代を分け隔てることで、このようにライフサイクルを具体化することができる。そして、ライフサイクルの潜在的な要素が、世代間のギャップを左右するのである。

 オルテガの青年期世代(15歳から30歳まで)はおおよそ、いわゆる成人期前半の初期段階に相当する。この段階で私達は労働に従事し、家族を築き、社会的地位を確立し、確定的ではないが世の中への第一歩を踏み出す。彼の創始期世代(30歳から45歳まで)は私の総体的な見方からすると、成人期前半の絶頂期に達する。30代前半に私達は、社会に対して責任を負うが、世間では年下の一員である。40代前半までに私達は、より年上の立場になり、そして支配期世代に加わることになる。創始期世代に私達は分別を身につけ、年長者を支配するようになる。そして私達はまた、ゆっくりと私達自身の権力を行使し始め、新しい思想や目標を適度にあるいは急速に生み出す。私達は支配期世代になると、全ての社会組織を統治する構成員を多少修正する。歴史においていつなんどきでも、創始期世代と支配期世代が社会の未来の大部分を決定し、彼らとの関係はとても大きく、歴史的重要性がある。私達が少なくとも知っているおおよそ30歳から60歳の世代は、個人としてだけではなく、集団的にも最も根本的な重要性を持つというのは皮肉なことである。(翻訳係:江副、説明係:有川)

 

 この簡潔な論評において、絶頂に達した人物はエリック・H・エリクソンである。1950年の『幼年時代と社会』の出版によって、彼は当時の最も影響を及ぼす発達上の理論化になった。その本はおそらく“ライフサイクルと社会”と呼ばれているだろう。その特有の想像力は、ライフサイクルの明確な枠組みの範囲内に幼年時代をおくことと成人の発達の研究を生じさせることにあった。エリクソンの発達の概念は第1に個人のライフコースを取り扱っている。彼は主な調査方法として、療法や検査よりむしろ伝記を使用し、事例史よりむしろ人生史の概念といった生活の過程を重要視した。人生の研究において、彼の最初のステップは、年中ライフコースを調べることであった。そして彼は、ライフコースが個人(魂、個性、精神)と外部の世界(社会、文化、慣習、歴史)のかみ合いに反映した方法を捜し求めた。

 エリクソンは八つの自我段階の連続を想定した。それぞれの段階は、ライフサイクルの特定の部分で優位を占め最も占有する。始めの5段階は、一連の幼少から青年期の年齢の部分に及んでいる。最後の3段階は若い成人期、成人期、老年期といった、エリクソンによって特定された年齢の部分からなっている。六段階の、20歳前後の“若い成人期”の始まりにおいて親交対分離がはっきりと始まる。八段階では清廉対絶望が60代に老年期を始める。エリクソンは七段階の生産対停滞の開始を捕らえるのに最も苦労し、様々な解釈をしている。私が読んだ彼の著書の中の特に『ガンジーの真実』で生産は約40歳で始まり、中年期の間主要な関わりをする。この段階でかぎとなる問題は、若い成人世代への関わりである。Ortegaの期間、生産は支配的な世代の主な仕事であり、若い世代が将来年長者の後を継ぐ用意ができるように教育をし、加入世代の発達を促進させる責任がある。(翻訳係:出水、説明係:且)

 

 エリクソンは、自分の幼年期の見解にひけめを感じていた。彼の、20から60歳の成年期についてと、彼らの中にある自我についての見解は、大人への成長の勉強の価値のあるスタートを与える。しかし、より必要とされている。ライフサイクルの区分の問題は、エリクソン一人のものではない。それは、一般的に無視されるか、ぼやけた基本的な論点である。人間の発達についてのほとんどのテキストブックは、60%かそれ以上は幼年期、20%かそれより少ないかは成年期、だいたい20%は老年期に費やしている。

  私達はライフサイクルの一時期を区別するのに、他に何を基準とするのか?ライフサイクルの区分は、全体にわたる生きているこれらの年の性格の基礎をなす単一性によって、特性を与えられている。それは、ただ生活の見解の点から限定できるものではない。今や、ほとんど最初の20年間からよく確立されたライフサイクルの構成があった。私達は、だいたい幼年期を成年期への成長の時期と呼ぶ。それはひとつづきの範囲で、例えば早い幼年期や、中間の幼年期、そして青年期(それは事実上遅い青年期)のように小さく区分する。 社会の役割や、家族の結びつき、仕事、他の背景、生活の大きなイベントの改造、人格の安定性と変化などの、大人の生活のたくさんの明確な特徴を習得するのであるのに、ライフサイクルの大人の時期についての一致ととても一致することはできない。

 私達は、大人の発達を大きな分野の勉強として確立するために、個人の生活の発展する様子を述べること、成年期の、ライフサイクルの中の位置付けを認識すること、成年期において、どのように発展しつづけるか決心することの3つの大きな仕事にとりくまなければならない。これは、役割や、結びつき、そして、より社会の流行に融合することを学ぶことができるようになる。発展の課程などの明確なイベントの範囲内での構成を供給するだろう。私は今、私独自のライフサイクルや、大人の成長の概念に向く。(翻訳係:原田、説明係:田畑)

 

時期:ライフサイクルのマクロ構造

 私はライフサイクルを時期の連続であると思いついた。(18ページの図参照)各々の時期には、それぞれ生物的、精神的、社会的特徴があり、全てのことに特有の貢献をした。ある時期から次の時期へ移り変わると、生人生の本質にとてつもない変化が生じ、その変化よりは劣るけれども、その時期に定期的に重要な変化があった。それらの変化は部分的に重なっている。つまり、新しい時期は、その直前の時期に終わりが近づいたときに始まる。相互の時期の推移は、一般に5年ほど続くとされているが、去ってゆく時期で終わり、次にくる時期で始まる。時期と、相互に時期が移り変わる段階は、ライフサイクルの広大な構造を形成している。そのライフサイクルは、個々の人生の過程においての無数の差異を認めていない、あらゆる人間の人生の流れに基本的道理を与えている。

 すべての時代と発達上の段階は、約2年以上平均値以下の幅のある明確な平均年齢で始まり、終わる。成熟した人生においての年齢に関する1つの姿の考えは、平凡な分別とは反対ものだ。言うまでもなく、男性だけでなく女性についての研究は、これらの年齢のつながりを明らかにしている。(翻訳係:轟木、説明係:櫻井)

 

 第1の世代である幼年期は誕生から大体22歳ぐらいまでに及びます。この世代では最も早い成長がみられます。人生の最初の何年かは誕生から幼年期への移り変わりの期間に当たります。新しく生まれ変わるこの期間で、生物学的・心理学的に母親から離れ、個人形成の過程が繰り返される中で最初の段階となる「自分」と「自分以外」という初めての区別の確立がなされます。幼年期初期は幼年期中期と青年期へと導かれています。

 17歳から22歳ぐらいの期間は成人期初期への変遷構成期間で、発達した幼年期という世代に終止符を打ち、成人期初期への進行が始まります。この期間は、二つの世代が存在し、片方だけでは完全とは言えないのです。私たちは家族と幼年期を構成した要素との関係を修正し、成人としてのアイデンティティを形成し始め、成人世界での大人としての居場所を獲得していきます。幼年期を軸に考えると、大抵の場合発達は成し遂げられ、子供は大人になるために成熟したと言えます。一般に発達心理学のテキストはこの観点を採用しています。しかし、全体的に見たライフサイクルの観点からすれば、一つの世代の発達した技能は、次の世代が始まるための一歩にすぎないのです。初期の成人変遷は、いわば、成熟した幼年期とまだ幼い成人期初期の二つで構成されているのです。私たちは不安定に揺らいだスタートに立ち、新しい種類の発達が新たな世代で要求されるのです。(翻訳係:森園、説明係:西山)

 

2002.10.30

 

第二の時期は早い成人期であり、約17歳から45歳ごろまで続きます。それは成人への過渡期から始まります。この時期は最も大きいエネルギーと豊潤な大人の時代であり、最も大きい否定およびストレスの間に存在している。生物学において20代から30代はライフサイクルの中で最高の年代である。社会的な、および心理学的な用語で言うと早い成人期は若々しい熱望を形成し追跡するための時期であり、自分自身にとって社会でふさわしい場合を形成し家族を上げて大人の世界のシニアメンバーになる。これは愛情、性欲、家族生活、占領の促進、創造性についての一時的な満足であるかもしれない、そして主要な人生のゴールを実現する。しかし、そこはストレスを鎮圧できる。また、私達が親の立場の荷を引き受けると同時に職業を形成する。私達の収益力がまだ相対的に低い時期に私達は重い金融義務を招く。私達は配偶者や家族について重要な選択をして、円熟な人生経験を持つ前の生活で働く。早い成人期は、私達の中から私達自身の情熱と野心、家族、地域団体、および社会の要求により最も強い衝撃が与えられる時代である。適度に好意的な条件の下では、この時代に生きている報酬が巨大である。しかし、コストはしばしば利点と等しいか、または越えている。
 
人生半ばの過渡期は約40歳から45歳までで、早い成人期の終了および中間成人期のかいしを引き起こす。それが30代の後半にあるように、40代の半ばでいつも人生の特徴がかなり違うことを示している。(翻訳係:有馬、説明係:有川)

 

 この本は最初に、成人への過渡期から人生半ばの過渡期までの発達上の段階を通して、成人期初期における女性の生活について論じる。

 第3の段階である中年期は、人生半ばの過渡期から始まり、大体40歳から65歳までである。この段階での私たちの生物学上の能力は、成人期初期のそれらに劣るが、普通はまだ精力的で、個人としては満足のいく社会的価値のある生活を送るためには十分である。いくつかの特別な過程における私たちの生活を除外しなければ、特定の世間において、大部分の40代から50代の間は、威厳がありまたは慎み深かくなろうとも、年長者の一員となる。私たちは自身の仕事とあるいは他者の仕事のみならず、近いうちに年上世代に加わる成人になったばかりの現行の世代の発達にも責任をもつ。この段階では創造的で、自身と他者に責任を持ち、展望において普遍的で、狭い同族間の価値を少しだけ結び付け、感情を交えず意図的であり、親密で俗的に愛することが、今までよりできるようになる。不運にも、中年期は虚しさが募り、体力も失われ、多くの人にとって連続的な下り坂の時である。

 次の段階である老年期は大体60歳から始まる。老年への過渡期は60歳から65歳までで、中年から老年期への発達上の段階をつなぐ。この段階についてはThe Seasons of a Man’s Life2章において論じる。(翻訳係:西村、説明係:森園)

 

 私達はこのライフサイクルの概念が、発達についての正しい認識であるのか再検討してみる必要がある。私達は一般に児童期の発達を成長や個人の潜在能力の実現と同義に考えがちである。しかし、児童期における発達の基本的な意味は進化の過程である。それは、成長とは違うのである。もっと正確にいうと、発達にはプラス成長とマイナス成長という互いに対をなす二つの側面がある。つまり、「上に成長すること」と「下に成長すること」である。前者の期間は青春期で、それは文字通りに「成人期に近づくこと」を意味する。そして潜在的な最適へのプラス成長を示唆する。後者の期間は老年期で、それは老年に近づくことを意味し、マイナス成長と死滅を示唆する。(翻訳係:江副、説明係:西山)

 

青年期と老年期の両方ともライフサイクルの間中続くが、それらの特徴や相対的なバランスは感知できる程に時代から時代がうつるに従って変化していく。私たちの一つの時代の発達へのアプローチは、その他の時代の発達に文字通りのモデルを供給できない。子供時代は、成長の過程において少々の違いを伴うかもしれないが、私たちはその時代をたいてい青年期という。本当の世界を理解するという点での子供の成長は、独創的な想像力の衰退と結び付いているかもしれない。子供の発達の理論は主に積極的な成長を扱う。連続する段階は低い方から、より高い発達段階の方までの発達を形成する。体の大きさや、機能、認識の複雑さ、適応能力の目覚ましい進歩や、性格形成の各段階は先のよりもより高い発達のレベルを表すという考えを支持する。しかし、その特性はそのような早い二十歳までの成長を示したり、早い成人期に定着させるつもりで、そのうえ、40才を過ぎるあたりで徐々に衰える。生物学上の老年期の始まりはこのように青年期を過ぎて始まる。子供時代を中心に発達を見ることは、このようにかなり荒れた大人の発達の事態を生み出しがちである。それは、よく豊富な可能性や中年世代の功績、晩年期の大人世代を無視する傾向にあるからである。(翻訳係:且、説明係:轟木)

 

後半の成人期ではわたしたちは大抵老いていっている。しかし、真に重要な青春期は私たちが自分の人生、人間に避けられない最後の段階である生涯と死、に十分な意味を与えようとしながら、ライフサイクルの終わりに向かっていっているのかもしれない。死の接近は」、十分な成人期への発達のときであるといえるかもしれない。

初期、中期の成人期において、青春と老いは不安定な状態で同時に存在する。成人発達の研究は、成人の人生が青春と老いが絡み合ったものであることに注意しなければならない。成人期にはっきりとした成長の可能性は存在するけれども、幼年期ほど確実なものではなく、異なった形をとる。控えめな成長の程度もまたいくつかあるが、連続する時期において異なった形をとる。ある人々にとっては初期と中期の成人期は活力と達成の増える時期である(もがきと苦しみなしではないが)。他の人々にとってそれは、平凡と不振、心の死んだ状態になる時である。これらの両方、そしてその中間は、私たちに人間の強さや弱さについて多くのことを教えてくれる。成人の発達は自己の権利で研究しているが、簡単に幼年期の延長や老年期の前兆としては片付けられない。(翻訳係:出水、説明係:櫻井)

 

生活構造

私の大人への発達の接近は、ライフコースとライフサイクルとみなされる前述の見解を脱することであり、それによって形作られてもいる。私は主に特定の時間における人間の人生の特質をとらえることと、その年月を越えた人生の過程に興味がある。人格の特質、社会の役割、生物学の特色は人生であり、ライフコースからつりあいの取れた見方をすると、人生の文脈の中に位置すべきだ。

 私の調査から出てくる鍵となる概念は人生構造である:決められた時間における基礎をなす模様、または人生設計。このThe Seasons of a Man's Lifeのような本は広く成人期における人生構造の発達について述べている。ここで述べられている発達期は人生構造が発達する期間でもある。私は人生構造の文脈から始めよう、そして成人期における進化のために続ける。

 この期間の意味は人生構造と人格構造を比較することによって明らかにできる。ある人生構造の学説はある具体的な疑問について考え方を提供する:私はどのような人間か?違う学説はこの疑問についてたくさんの考え方を提供し、願望、矛盾、防御、性質、技能、価値などの特性からある人、または別の人を特徴づける。(翻訳係:田畑、説明係:原田)

 

2002.11.06

 

 生活構造の理論は、違う問題についての考え方である。:私の人生は何で現在のようになったのであろうか?私達がこの問題を考えはじめると、心に他の多くのことが浮かぶ。:私の人生の中で最も重要な部分は何なのか、それらは相互にどう関係しているのであろうか?私はどこで自分の時間とエネルギーのほとんどを投資するか?そこにある 配偶者、恋人、ファミリー、職業、宗教、余暇へのいくつかの関係、または、私が修正したいもの何でも、より多くの満足をするか、または取り除きたいのか?あるなんでもない物が、私が含みたい自分の生活にあるか?現在、休んでいる、または少ない場所を占めるという興味、および私がより中心的にしたい関係があるか?これらの問題を考える時に、私達は、最も大きい意義を私達に持っている外部世界のそれらの面を識別しはじめる。私達はそれらのうちのそれぞれによって私達の関係を特徴付けて、様々な関係の織り込みを試験する。私達は、必然的に、単一のパターンまたは構造内で私達の関係が不完全に相互にきしむと気付く。

 生活構造の主要な構成要素は、外部の世界や他での人の関係である。重要な関係は現在の他に、友人、恋人、配偶者、親、または子孫にあるかもしれない。他は、過去、象徴的なまたは想像された図、ひとつのグループまたは組織、自然、絵画または本さえ愛されている(または憎悪されている)場所の面から人でもあるかもしれない。(翻訳係:有馬、説明係:西村)

 

描写する際に私たちが考慮すべき関係(1)人と人がお互いにすること(2)主観的な意味が含まれること(3)人が実質面、感情面、そして社会面で与え、そして受けるもの(4)関係の社会背景(5)人の生活構造の中、そしてそれがどのようにほかの関係とつながっているかという中での関係の場所(6)生活構造の中での時間を越えた進化  生活構造の概念は私たちの自然の実験をすること、すべての重要な他人と大人の関係のパターン、年を経て、それらの関係が進化することを必要とする。関係は私たちの生活を校正しているスタッフです。彼らはライフコースの形と本質を与えます。私たちは関係という伝達手段で、私たち自身のさまざまな概観を行動に移すか、または埋めるかのどちらかです。そしてよかれ悪しかれ私たちは周りの世界に参加します。生活構造は少数または多数の構成要素を持っているかもしれない。中心の構成要素は自分自身にとって、そして生活にとってもっとも大きな重大性を持っているかもしれない。彼らは、彼らの時間、そしてエネルギーのもっとも大きな分配を受ける。そして彼らはほかの構成要素の性格に強く影響する。ただ一つ、または二つの構成要素、まれに三つ、構造の中で中心の場所を占める。周囲の構成要素は簡単に変わるか、分離する。彼らは、自分自身の少ない投資を巻き込む、そしてかれらの生活の構造の上で少ない影響とともに変えられることができる。いっぱいではない構成要素もまた、重要なものかもしれない。人は緊急に求める、しかし意味のある占有、結婚、家族、そしてこの不在の構成要素は、生活構造の中での主要な部分を果たす。(翻訳係:有川、説明係:江副)

 

たいてい、結婚・家族、職業は人の人生の構成要素である。それらの相対的な重要性や他の構成要素の重要性があり、多くのバリエーションがある。人生構造の構成要素を見ると、家族は多くの人、活動、社会の状況などの色んな要素を巻き込んだ複雑な世界である。家族は現代の配偶者と子供の核家族(もしくは独り身のままでいる)、早まった結婚や家族、家族の基(両親と子供)、拡大家族などの色んなタイプの家族を含んでいるかもしれない。<家族>は以前から多くの世代を含んでいる、そして連続する未来の世代を含むシンボルである。家族との関係は、民族、人種、職業、文化的な伝統などとの関係を交ぜたようなものである。

同様に、職業も人生構造の主要な構成要素となりがちである。職業は単なる特定の仕事の活動や報酬の問題ではないし、特定の職のカテゴリーのメンバーであると言うような問題でもない。仕事は人を念入りな職業の世界に従事させる。女性の人生の仕事が果たす役割を理解するため、私たちは仕事の世界やその全体からの様々な部分の関係を調査しなければならない。また、どのように職業が人生構造の他の構成要素と関わってるのかを見なければいけない。(翻訳係:且、説明係:出水)

 

職業や家族に加えて、生活構造は、愛の結びつき、友情、政治の結びつき、宗教、人種、共同社会、余暇や娯楽で孤独を過ごすこと、身体の結びつき(身体の健康、病気、活力、衰えを含む)、たくさんの社会の背景の役割と会員、などの他の構成部分を含む。基礎を成し、浸透する外部の世界との結びつきは、自身とのむすびつきである。(翻訳係:原田、説明係:田畑)

 

生活構造は自身と世界の間に境界線を形成して、両者間の関係を仲介する。この境界線は、ただつながりとして私たちが見ていると理解されうるだろう。それは、自身と世界をつなげる物で、部分的に分断されている。それは部分的な原因や手段や効果の結びつきだ。生活構造は、自身の取り決めと範囲外の世界を超えて成育する。その発展は、自身と世界についての要因によって形成されている。そして、私たちに一番に自身と世界について考えることを要求している。第一位や第二位のもの、派生物を作ることよりもむしろ。生活構造のセオリーは、公平に心理学と社会科学を描かなければならない。成人の生物的発達について取り扱うときは生物学も描かれる。

 私たちが基本的な生活構造について明瞭になるにつれて、もっと詳しく範囲外の局面、例えば出来事、社会的背景、ルール、すべての種類の影響などを探求することができる。範囲内の局面、例えば主観的意味、動機、闘争、個人の質などだけでなく。生活構造はこれらの局面を混ぜ合わせた内部の骨組みだ。具体的な中身なしにその構造の外形のみを見ることは、生活に対する型に沿った視点しか持てないことを意味する。発展しつつある構造を全体的に捉えずに詳細を重点的に扱うことは、たとえそれがたくさんの詳細であっても、断面を知ることだが生活を見失うことでもある。あるバランスで両方を含むことはこの本の主要な狙いだ。(翻訳係:轟木、説明係:西山)

 

成人期における生活構造の発展の時期

 個人のライフコース内での特定の出来事、行動、社会的役割、そして個人的な変化の順序に秩序というものはそれほど多くなく、一般的な秩序というものがないのは明白である。しかし、私たちが生活構造の発展を検討する時、限りないヴァリエーションを持つ基礎的な秩序がでてきます。つまり、成人である間、期間内での水準的な順序を通して生活構造は発達します。この順序の中で、私たちが構造を築き、維持する期間は、構造を一変する過渡的な期間でもあります。

 構造構築期間での重要な役割は、生活構造を形成し、維持すること、また、その期間内で私たちの生活を高めることです。つまり、私たちは、確かなキー選択をし、その周りで構造を形成し、この構造の中で私たちの価値や目標を探求します。私たちが安定した構造の維持に成功している時でさえ、生活は必ずしも精神的に安定していません。重要な生活選択をしたり、構造を構築する作業は、たいていストレスが起こりやすいのが事実で、多くの変化の種類を含んでいます。構造構築期間は、たいてい5年から7年続きます。その時、安定のための基礎を形成する生活構造に対して、疑問を持ちながら修正していかなければなりません。(翻訳係:森園、説明係:原田)

 

 構造変化、もしくは過渡期は、現在の生活構造を終結させ、新しい生活構造のための可能性を作り出す。全ての過渡期での最初の仕事は、現在の構造を再評価すること、自分自身と世界においての変化に対する可能性を探求すること、そして、後続する期間における新しい生活構造の基礎からきわめて重大な選択に対する責任の方へ進むことである。過渡期というのは、普通、約5年ほど続く。また、私たちの成人が送るほとんど半分は、発展過渡期において力を使い果たす。生活構造は、不変ではない。―周期的な変化というのは、私たちの生活の性質の一部なのである。

 成人前期と中年期の時期は、18ページに載せてある。各期間は、平均以上あるいはそれ以下の2年の変化という明確な平均年齢で始まって、終わる。この研究における私たちの主な関心事は、成人前期に伴うものである。成人中期における時期の要約は、成人前期と2つの時代に橋をかける中年過渡期の私たちの理解に対する背景を与えるというものだ。インタビューおよび、伝記を使っての45歳から65歳という発展の時期の明確な説明は、女性と男性の調査の研究に基づいている。2つの点における「The Seasons of Man's Life」において一致するものとは異なる。つまり、構造―構築の時期の名前は、理論上の正確さのために変えられたのである(しかし、意味は同じである)。 そして、現在の図解が、全ての交差した時代過渡期は、双方の時代をつなぐ一部分であるということを、さらに明確に示している。(翻訳係:櫻井、説明係:田畑)

 

2002.11.20

 

(1)初期の成人期における過渡期は子供時代を終わらせることと、初期の成人期に着手することが交差する年代である。時代の交差する過渡期は生活構造における変化を含むだけでなく、ライフサイクルにおける基本的な転換期を含む。我々は時代の境界上にいる--あるものと次のための基礎を作る事とを結論づけ、出てくるアイディアの中から明確なものを除く。この時代は二つの年代の一部で互いに十分でない。

(2)早期成人期のために生活構造に入る。(22歳〜28歳)ここでの仕事はいくつかの鍵を選ばせる。(特に愛、結婚、家族、職業、生まれた家族からの別離、そしてライフスタイルの点では)そして若い成人として人生を作る。ある時代で作られる最初の生活構造は必然的に暫定的だ:これは新しい世界、そして新しい世代で居場所を作るという初めての試みである。

(3)30歳(28〜33歳)における過渡期は時代の真ん中でおきる。それは加わった生活構造の再評価、個人的ないくつかの更なる仕事をする(早い時期の移行期でしなかった仕事も含む)、次の構造で固定化される新しい可能性の探索の可能性を与える。この時期はほとんどの女性と男性にとって発展の難しい時期である。

(4)早期成人期(33〜40歳)で生活構造は最高潮となる。ここでのはじめの発展の作業は社会の中で我々の安全な場所を設立しようとすることができる、若いころの夢やゴールを達成する、などを含んだ構造を形作る。

(5)生活中期の移行期(40〜45歳)は早期成人期と中期成人期の発展の架け橋で、また両方の時代の一部である。我々は30代の生活構造を終わらせ、早期成人期に存在したような青年時代の終わる時がきて、適度に若く、適度に年をとった中年期への新しい道を作ろうとする。生活中期の仕事はこの時期においては特に重要である:内なる母体を作り、外的に自身を修正し、生活は残りのこの時代にわたって発展する。(翻訳係:田畑、説明係:有川)

 

(6)成人中年期(45歳から50歳)の生活構造の開始。この期間の主要課題は、成人中年期を開始するための最初の構造をつくり出すことである。この構造は30代後半の構造とはめざましく異なることがよくある。たとえそれが表面的には似ていたとしても、(例えば、同じ仕事、同じ結婚相手、同じ共同体であっても、)生活構造の主要な構成要素を組織しているものとの結びつきには、重要な違いがある。私達は、新しい世代や新しい生活時期で最初の地位を確立する。

(7)50歳の過渡期(50歳から55歳)は、生活構造の開始を再検討して、自分自身や世の中をさらに深く探求することに従事し、次に続く期間で形作られた構造の基礎をつくり出すためのチャンスの時期である。それは、過渡期の中間期で、30歳の過渡期に類似している。この期間の発達の重大な分かれ目は共通しており、とりわけ、多少の重要な生活変化や予期せぬ変化があった人達にとっては貴重な10年から15年となる。

(8)成人中年期(55歳から60歳)の生活構造の最盛期。この構造は、30代の構造みたいなもので、その時期の主要な向上心や目標の実現を与える。

(9)老年への過渡期(60歳から65歳)では、成人中年期と老年初期を終える。それには、過去についての深い再評価と新しい時期への移動が必要である。私達は次の時期、つまり、老年期の生活構造の開始の建物の基礎をつくり出す。(翻訳係:江副、説明係:且)

 

わたしたちはこのように、早期の成人期と中期の成人期において同じ発達期間の連続を見つける。

()交差する時代の過渡期(1722,4045,6065)は去っていく時期と終わらせ、新しい時期を始める。

()その時期の生活構造への加入(2228,4550)を築き保つ期間。

()過渡半ば期(2833,5055)は生活構造への加入の再評価と変更と、新しい時期の形成に対する調査の努力を認める。

()第2に、その時期の生活構造(3340,5560)の状態になること。

()そして()交差する時代の過渡期はこの時期を終りに至らせ、同時に次の時代へと突き出す。(翻訳係:出水、説明係:原田)

 

 おおよそ17歳から33歳の成人前期の最初の3つの時期は、引き続き新米時期である。それらは、青春期を過ぎて動き出すための、そして、一次的ではあるが、でも必要な、ひびの入った初期生活構造を構築し、その構造の限界を学ぶための機会を与える。33歳から45歳の2つの最終時期は、この時期の努力の成果を達成し、そして、次に乗り出す終結の時期を形成する。

 似たような連続性は中年において存在する。それはまた、40歳から55歳という3つの時期の新米時期から始まる。中年過渡期は、終わりでもあり、また始まりでもある。40代初期で、私たちは成人前期の成熟で満ち溢れ、そして、その最終章を完成している。私たちは、また、中年期の初期段階にいて、まさにその将来の見込みと危険性について学び始めようとしている。私たちが初期生活構造を試し、それから中年過渡期で、それを疑問視し、修正するチャンスにめぐり合うまで、私たちはそれぞれの時期において新米であり続ける。締めくくりの時期つまり、生活構造の最盛期、そして、その後にくる交差した過渡期の時期に、私たちは、時期を完成させ、そして、次への転換を始めるのである。新米時期の間、私たちは、程度は様々だが、新しい時期での生活の期待によって興奮し、また脅かされてもいる。同様に、私たちは、程度の差こそあれ、豊かな満足感や苦い失望感の時期として締めくくりの時期を経験し、そして、その時期は、最終的に私たちが思い描いていたより以上のもの、そしてそれ以下のものを私たちに与えることを、私たちがしばしば発見するように経験する。(翻訳係:櫻井、説明係:轟木)

 

 この標準な見方、つながりのある世代の年代の連続と成人期における発達の期間は、さまざまな主要な敬意の念の上にある私たちの文化のそして人類科学の伝統的な知識を侵害する。広い調査を否定することは、それらが個性、知識、職業上の経歴、家族、の成人期の発展での期間の順序と比較できないことを表す。なぜ、つながりのある年代の順序は、それが他を保たないとき、生活構造の発展を保つべきなのだろうか?私はこの順序の存在の理由を知らない、しかしそれは研究の証言によって示される存在である。私がそれを見ることによって、私の学説と他者は、違うが矛盾はしていない。年代と期間の順序は、生活のより特定の様相の進化はより理解されるべきであるという以内で、枠組みを与える。このとき、私は、発展のすべての様相が含まれるはずであるという以内で、私たちがより包括的な学説の基礎を持つだろうことを信じている。

 最後に、私は、順序やこの順序の的確な簡単さによって、驚いたこと、幾分きまりの悪い思いをしたことさえ認めなければいけない。17歳と65歳の間、私たちは時期の交差の過渡期とともに始まって終わる初期と中期の成人期である2つの時期を通過する。お互いの時期は、中期の過渡期によってつながっている、生活構造の入り口と生活構造の最高点への機会を与えている。私は最初より多くの順序を見つけると予期していなかったし、おそらくこの種の順序はないだろうとしていた。しかしながら、私はこの解釈が男性にとってのように、女性にとっても役に立つ証言として最もあっていることを報告しなければならない。(翻訳係:西山、説明係:森園)

 

2002.11.27

 

生活構造の「達成」

 上での留意のように、子供開発の多くの理論は、先に論じているものより個々の段階が発達的に高いか、またはより高度な一連の段階を提案する。この見方は幼年期に有効であるかもしれないが、その見方は、成人期の間は不確かである。1つの生活構造が別のものより発達的に高いかを判断をするために、私達は人命の経過の複雑さと否定をほとんど知らない。生活構造において最高潮の20代。同様に、中間成人期、私達の入り口の生活構造によって早い成人期における最高潮生の活構造を仕切る時に、新しい可能性および新しい負担を示す時代における変化を考慮する必要がある。私は『段階』というよりも『期間』とい用語を使い、層にされた一連の静的な実体というよりも発展歴史のプロセスの像を呼び起す。それぞれの年代〈それぞれの条件の下〉で、私達が生活構造の人々の種類をもっと知っている時が作りつける 私達は、より生活構造の間の発達的なレベルの変動を識別することができるかもしれない。(翻訳係:有馬、説明係:)

 

 発達したレベルの質問に従う間、私は発達するために役に立つ別の概念を見つけた。生活構造の満足のいくもの。すべてのほかの生活構造の属性のように、満足のいくものは外部の、そして内部の概念の両方を持っている。外部に、それは外部の世界の中で構造の実行可能性へと差し向ける。それがどんなに良く働いても、利点と欠点、成功と失敗、報酬と剥奪の方法の中でそれは供給するものである。内部に、それは自分自身の為に構造の適性へと差し向ける。すなわち、この構造の中で自身の概念を行動に移せることである。無視される、または鎮圧されるに違いない概念とは何か?自分自身の為のこの構造の利益と代償は何か?生活構造の満足のいくものを評価しようと試みる時に、私たちはそれの実行可能性とそれの適性の両方を考慮しなければならない、外部の状況の観点の中で内部の資源と同じように。(翻訳係:有川、説明係:)

 

 生活構造の満足は、普通これらの調査研究から評価される調整のレベルや、生活の満足といったものと同様ではない。生活の満足を九段階で表すある個人の自己評価は、私たちに事実上生活構造の満足はないことを教えてくれる。人々の中には、かなり快適な、そして整頓された生活にかなり満足している人もいるが、その生活は最小の約束事や目的の意義しか持ち合わせていない。彼等の生活は世界では多くの生存能力をもっているが、自己に対してはあまり適合しない。自己が生活に費やすとしたら、生活は順番に自己へ申し出る事ができる。同様に、情熱的に生活に従事するような人々や、生活構造に積極的に自己を費やす人々は、そうでない人たちよりも多くの騒動や苦難を経験しているかもしれない。彼等は生活が供給できない程の生活を求めるかもしれない。その強烈な生活の約束は、多くの豊かな産物を生むが、違った物を必要とし、より多くの犠牲を伴う。生活構造の満足を評価することはこのように複雑な事である。それには数少ない行動基準や、アンケートなどの手段でしか評価しえない。(翻訳係:且、説明係:)

 

生活構造の発展と自身の発展を区別することはとても重要だ。子供の研究において学術的起源を持つ多くの心理学者は自身の多様な見方の中で発展は成長として考える。大人の発展の研究は必然的に自身の焦点を越えてなされる。それはライフコースを調べること、世界の中での自身の決まりごとを研究すること、実体を隠さないように自身の焦点の向こうで行動することが必要とされる。我々は生活構造の進化について学んでいくにつれ、自身の大人としての発展の研究のためのよりしっかりした基礎を持つようになる。(翻訳係:田畑、説明係:)

 

生活構造発展の過渡期

過渡期の見解は多くの概念が中心となる。過渡期はXとYの橋渡しを形成する変化の過程である。XとYは論説における二つのテーマであり、二つの仕事または都市、音楽の作品における二つのテーマ、二つの特有の構造であるかもしれない。“移り変わること”はXを去っていく過程であり(それを十分に離れることなしに)、そして同時にYに入る過程である(十分にそれの一部となることなしに)。過渡期はXとYをつなぐ境界域である。この境界のスペースはXとYの一部であるが、二つとは性質的に異なる。過渡期はこのように、分岐点のイメージ、経過における変化、切断の過程、移行、分離、矛盾を解決するための試み、安定というよりむしろ変化のときを意味する。私は今、Xを遂行することで持っているものをあきらめる事によってのみ、Yに加わる機会を作り出す。過渡期は有望な時期であり、よい未来の可能性を持つ時期である。それはまた、分離や喪失の時期である。

生活構造の発展における過渡期は三つの主な発達を伴う。(1)現在の生活構造の終結(2)個々(3)新しい構造の始まり。ある人は、これらの仕事は連続した秩序に従ったものであると思うかもしれない。つまり、はじめに過去を終結させ、三番目に新しい生活を始め、その中間に変化の基礎として個人の仕事がある、と。しかし発達はそのような論理的なやり方で続いてはいない。これら三つの仕事は過渡期の間織り交ざっているかもしれない。つまり人々は、過渡期の始まり、終わらせたり独自のものとなる前に新しい構造に加入し始めるかもしれない。私は同様に、それぞれの仕事について簡潔に述べようと思う。(翻訳係:出水、説明係:)

 

ターミネーション

終点は、単に終わりであり、結末であり最後のステップである。しかしながら、意味のある関係の終点は、まさに終わりだけでなく始まりも示すので、私達の生活の中で重要な部分である。それはより、現実的に終点を人格の関係の主要な質的な変換とみなす。それは一つの形態の関係を終わり、新しい形態をはじめる。この見解は、過去の結果としても、未来へのスタートのポイントである点では、終点の幅の広い時間のつりあいのとれた見方に置く。

  その意味のある関係の他の方は、はやく注目したとして、人間になる(生きるか死ぬか、または実在しない)、グループ、施設、または社会の動き、シンボルまたは場所になるかもしれない。もし、他の方が私にとって少しの価値のあるまたは意味のあるものだとしたら。私にたいして他の方はあまり価値と重要性がほとんどなかったら、またもし私が重要でない位置をなくしたら、私の価値はなくなったら、もし私が、私にたいして何気ない興味しかいだいていない一人の人か大勢のグループの人とのつながりをなくしたら、それは、ほぼなんの意味もなく私の人生をすぎさってしまう。その状況はそれは私の生活の構造の主な成分の形づくる関係によって、とてもちがう。そして私の人生におおきな投資をすることができた。そのような関係の終決を長引かせ、私の将来の人生の糧となった。(翻訳係:原田、説明係:)

 

最も劇的な結末は他者との接触の全体的喪失を伴っている。つまり;愛したものの死、解散した大事な集団、療法の終結そして私はもはや療法士(癒してくれる人)がいないことがわかる、苦いけんかは友達もしくはよき指導者から永遠に別れるよう導く、地理的移動(自発的もしくは強制的)私が再び見れなくなるかもしれない世界からわたしを去らせるようにする、のことである。私は強い喪失を経験し、自暴自棄、無力感、悲嘆、憤怒の苦しい感情を引き起こすだろう。他者はもはや外的に可能でないけれども、その関係は死んでいない。過去に失った他者はより深く内面化され、内部の像のように存在する。その関係は私自身や私の人生での進化として続く。そのある様相は終わったが、ほかの様相は生き残って、新しいものが加えられる。より早期に関係を失うたび、私はだんだんと新しいものを作る。

しかしながら、多くの場合、結末は他者からの全体的分離を伴わない。私たちはいくつか接触を持ちつづける、しかし関係の性質上、決定的な変化は起こる。強いよい関係は、苦い争いもしくは近づき的には離れているが深い情愛の結果として起こる。結婚は離婚で終わるが、その関係は新しい形で続いている。(翻訳係:西山、説明係)

 

 終了は、このように終わりではなく、転換点である。その関係は、一変されなければならない。常にではなく、時々、死や離婚、地理的移動、卒業などのように明確にはっきりと終了している出来事がある。一般に、ずっと前に始まる確認の出来事、そして、ずっと後に続く終了過程において、その出来事は、ある1つの点をドラマ化する。終了は、残されることに関する心配、独立して新たにスタートしなければならないことに対する他の恐れを放棄すること、あるいは裏切ることに関する有罪を作り出す。どちらの側にとっても、彼らがその関係において保っていくであろうことや、あきらめるであろうことを決定することは大切なことである。彼らは、改良された関係の基礎は存在するかどうか、すべてのものは落ちぶれなければならないのか、彼らが本質的に気のめいるような、あるいは死んだような関係のままでい続けるつもりであるかどうかを確かめるための時間を必要としている。

 1つの関係の終了は、十分に難しい。生活構造の過渡期において、その問題は混合される。人間の生活、および、交差する時代過渡期において、外交的時期の現在の構造を終了することは必要である。基礎的質問は簡単にない。私は自分の結婚、仕事、もしくは余暇の欠如について何をする予定であるか?私は自分の生活について何をする予定であるか?私は最初、最もつらく、あるいは最も変化に左右されやすく見える、ある格別な構成要素に集中するかもしれない。―しかし、時間の中で、私は、他人、そして全てを含む構造を扱っていかねばならないだろう。(翻訳係:櫻井、説明係:)

 

2002.12.18

 

早い大人への移行、例えば、私達は親から離れる課程にいるときである。この発展の務めは、全く関係の終わりということではない。その確かな見解を拒絶することは重要なことである。(例えば、全てを支配する親に関係させることによって、非常に服従するか反抗的な子供になること)しかし、他のたくさんの見解を維持することや興味を共有することはもちろん、離れた特色のある個人の中から、互いに尊敬するような新しい資質を築き上げることも重要である。40歳で自身の発展の務めで働いている両親は、少なくとも関係を一変させる努力に関係させる。もし、子孫と両親のライフシーズンを当てる方法を変更できなければ、それはますます、ストレスの多い、そしてさらに衰え消え去ってしまうものになるだろう。さらに親との関係は、成人の生活構造の初めの構成部分の一つである。この構成部分の影響、それによって影響されることは、職業の関係や友達・恋人との関係、政治・宗教によること、世界中の一員になっている人々の文化である。過渡期の期間のたくさんの関係は重要視され、厳密に調べられ、分析され、そして選択してもろい構造へと合同されなければならない。(翻訳係:原田)

 

個性化

個性化、あるいは、個人化プロセスは、子どもの成長の重要な側面として広く知られている。人生の最初の数年間、私たちは個性化において、自己異なる自己の間の境界線の確立、そして、下界とのより安定した関係の構築という最初のステップをふむ。この最初の交差する過渡期において、私たちは、子宮での生活から、その世界における人間としての生活へと移っていく。個人化は、大人のアイデンティティの最初の合併、両親からのさらなる大きな分離、および、大人としての将来の生活に対する準備を伴った成人前期の過渡期において、さらに前進する。しかし、私たちが進んでいくのには、いまだ長い道のりがある。もしも、私たちが20歳だったときより、中年期の方が、より個性化されたものでなかったなら、私たちの生活は、実際、とても限られたものであっただろう。(翻訳係:櫻井)

 

個性化は、自己の中で単独で生じるプロセスとしてしばしばみなされる。私の視点では、個性化はこれより広い。つまり、それは自己と外界との個人の関係が含まれる。自己の個性化があれば、私たちは「私たちは誰なのか」「私たちは何が欲しいのか」というより明快な感覚を持っている。私たちは内的資源(欲望、価値、才能、典型的潜在能力)を十分に描くことができる。私たちは、より独立して、自己成育、自己責任になる。自己は、完全になり、内部の否定によってバラバラになる。個性化は、外界との関係も生じる。より個性的な関係があれば、私たちは心から人間と自然界との関連性を感じるだろう。私たちは、その可能性を探索し、それが要求する物と提供する物を理解することが出来る。私たちはそれに大切な意味を与え、意味の個人的構造に対する責任を持つ。私たちは自己満足に関係する狭い自分や、他人の必要性に関連する過度に利他主義に制限されることなく相互関係の能力がある。私たちは単独であること、調和おいての友情の両方の最高の現実を受け入れる。(翻訳係:轟木)

 

 私は個々が、人間発達と個々のライフサイクルの中で基本的に重要な4つの対極が確固たる意味をもつための発展的努力をするともみなします。それらは、つまり「若者/年長者、破壊/創造、男性的/女性的、結合/分離」です。それらのそれぞれの対同士は、対抗し合う性質・状態であるという意味において、対極にあります。それらはある意味対照的であるけれども、どちら側も全ての人・社会の中で共存しています。

 何歳になっても、私たちは若いし、老いてもいます。例えば、40歳で、私たちは青年時代よりも老いを感じます。しかし、進んで「中年」世代に入るわけではありません。私たちは、若い、老いた、またはその中間だと代わる代わるに感じます。もし、私たちがあまりにも強く20代の若さに固執しすぎたら、成人期中期世代での地位を確立できません。もし、私たちが、若くいることや若さへのつながりを維持することを諦めたら、ドライで、堅苦しく、ただ早まって歳をとった人になります。これはバランスの問題です。つまり、全ての過渡期期間での発展的な努めとは、ライフサイクルの各世代に適応した新しい形での「若者/年長者」になることなのです。(翻訳係:森園)

 

破壊と創造という両極端は 闘争と再統合というよく似た問題を示す。全ての過渡期は人の死と破壊に対する関係を活性化する。例えば、40代前半の人生半ばの過渡期に私達は、自分の死ぬ運命と他人の実際の死や臨終をたくさん経験する。私達は、悪意を備えた、あるいはしばしば善意を備えた私達に対して、他人それも私達の恋人でさえもが、破壊的に行動した多くの方法にもっと気づくようになる。恐らくその上もっと悪いことには、私達の両親、恋人、配偶者、子供、友達、ライバル(さらに、最悪あるいは最善であったかもしれないこと)に対して、取り返しのつかない感情を傷つけるようなことをしたことを悟る。同時に私達は、もっと創造的で愛情に満ちた人間になりたいという強い願望を持つ。つまり、自身や他人にとって真の価値を持つ製品を創造し、人間の幸福を促進する集団事業に参加し、社会の来るべき世代にたくさん貢献することである。中年期に人は、以前より増して人間の精神(私の精神)に共存している破壊性と創造性の強力な力を知ることができるようになる。そして、完全ではないけれども多くの方法で破壊性と創造性は統合されることができる。(翻訳係:江副)

 

同様に、私たち中年世代のすべては、自己の男らしさと女らしさの部分の共存をもっと十分にしなければいけない。男らしさと女らしさの分かれ目は、子供時代によく起こり、早い大人世代では打ち勝つ事ができない。それは、中年や、老年世代になっても続く課題である。
最後に、私たちは外界で言う結婚の必要と、それとは正反対の、しかし同様に重要な分離の必要をまとめなければいけない。これらやその他の両極性の統合は、すばらしい見通しだが実現しようと試みても誰も十分に達成できない。

私たちはライフコースの間中いかなる時も、これらの両極性において働く事ができる。しかしながら、過渡期の間は、機会と統合の達成の必要の両方ともが最も強くなる時期である。生活構造は再評価と変化が上がるならば、私たちはある程度過去と未来の間で行ったり来たりであると感じるが、それは自己の深い分割や最も重要な関係を修復することが特に重要である。(両極性の論文、The Seasons of a Man's Lifeより)(翻訳係:且)

 

2003.01.15

 

開始

前述したように、変遷は結末と始まりである。結末として、それは、終了、浪費、分離点、出発、完成を論じるのを私達に要求する。始まりとして、それは開始の仕事を示す。:私達の既存の関係を変更し、その外において新しい関係が発展するかもしれない自身と世界の様相を検索することによって新しい可能性を探究する。探検し、作成、およびテスト暫定的な選択、および新しい方向での探求のプロセスは、過渡期にわたって続くことができる。

開始することは、選択をすることであり、開始の成果は、私達がする選択に最もはっきりと反映されている。最も簡単なケースでは、選択は、メニューのスカーフまたはアイテムを選ぶなどの単一の行為である。最も重要な生活選択はより複雑である。私達は、友人、配偶者、職業、宗教または政治的な展望を瞬間的で、すべてか無かの方法では選ばない。代わりに、私達は、ずっと多くの拡張された考察-感覚-探検のプロセスを通り抜ける。初期の選択は他によって関係に立ち入る必要がある(人、グループ、何種類もの実体)。私は、しばしば望んでいる意識的な感覚なしで関係自身のいくらかの投資をし始める。私は他からある相互の反応を期待する。関係は時間の間で発展する。他者と私は、方法に沿って多くの具体的な選択をする:関係を終えるために,別のものというよりも1つの方向にそれを変更するために、それを続けていく。選択は、私達自身の好みと外部の機会/強制するものにおいて、様々な程度に基づくことができる。選択の過程は、しばしば、意識があるおよび無意識な面を持っている。私は、未来の間に種々の時にたまたまおよび他の方法でそれを1つの点で理解する。発達的な観点から、「獲得は結婚した」のプロセスは、数ヶ月または数年前と結婚式に普通に近づく。発達的な観点から、「獲得は結婚した」のプロセスは、数ヶ月または数年前と結婚式に普通に近づく。そして、それは我慢関係の多くの段階のうちの1つである。(翻訳係:有馬)

 

すべての意義深い関係はこのように静的な実体であるが、両方の集合体は選択の連続をなす発展過程である。それぞれの選択はより幅広い世間的な順序の中に見えるに違いない、特に移行期においては。それが熱狂させたときでさえ、選択は移行期の中に仮の質を持つ必要性を作り出し、その幹は移行の下調べによるものである。下調べは試験を必要とする:もし我々が一つの選択にひどく献身的であったなら、我々はほかのものを調べる自由をもたない。

移行が終わりを迎えたなら、もっと長期にわたる選択をする時であり、それらの選択に意味と約束を与える時であり、そしてそれらの周辺に生活構造を作り始めるときなのだ。それらは、ある意味では、移行において重要な産物なのだ。過去数年の努力―仕事や結婚を改善するための努力、生活における代わりの可能性を調べる努力、自身との折り合いをつけるための努力がなされたとき我々は、”これで私は我慢する”と決心し、そして旅において次の段階のための乗り物を供給する生活構造を作り始めねばならない。(翻訳係:田畑)

 

生活構造発展の危機

いくつかの移行は結構なめらかに進化する。私達は多くの明白な中断、あるいは継続する苦痛なしに現在の生活構造をリフォームする。その期間は相対的な安定、あるいは前向きな変化の時間として経験され、そして困難は快く扱いやすい。移行はなめらかにいくかもしれない。なぜなら以前の構造はまったく満足のいくものであり、そしてただ小さな変化を欲したからである。しかしながらいくつかの場合、生活構造は満足のいかないものである。しかし移行は多くの変化なしにすぎる。なぜなら私達は欠点を認める用意ができていない。(変化に富んだ内部の、そして外部の理由の為に)そして彼らを変えるために働く為の。認めない問題はしばしば後の期間、彼らにより重い代償を強要する時、になって表面化する。(翻訳係:有川)

 

人が今の時代のしなければならない仕事と出くわし、すごい困難と直面したとき、発達危機が生じる。過渡期はしばしば厳格の危機とは逆の穏やかな時間である。その危機とは通行中に通行するのを一時停止されるようなもの、つまりある生活構造の終わりと、次の生活構造の始まりとの間に板ばさみされるようなことで、その状況を変える方法は分からない。この厳しい危機の間、前にも後ろにも進むことができない、未来の喪失という切迫した危険な状況にいると私たちは感じる。また危機は、時代を作り維持している構造においても生じるかもしれない。そのような時代の始まりにおいての危機は平凡な構造を作っている厳しい問題から取り除く。もし、作られた構造を維持するのが極めて困難になるならば、それは時代の末に起こるだろう。(翻訳係:轟木)

 

男性の人生における季節において、私はその中でしばしば起こる人生半ばの過渡期と発達上の危機の概念を導入した。それ以来ずっと、“人生半ばの危機”という用語は学問上の文献と同様にマスメディアにおいても広範囲にわたって使われており、それはしばしば私に起因されている。残念なことに、たいていの作家はこの用語を明示的に定義したり文脈で述べることなしに一種のがらくた入れとして使っている。たいていの共通の視点は、人生半ばの危機はストレスのある出来事に対する不適切な応答であるというものである。これらの作家は、発達上の危機ではなく、適応できる危機であると考えている-争い、病気、悪用のようなストレスの高い状況にうまく対処するという問題。そのような適応できる危機は“中年期”においてどこでも起こるかもしれない。危機の起こる年齢は主にそれを誘発する外界の出来事による。年齢ではこの視点ではほとんど重要ではない。それは成人の発達において、ライフサイクルまたは年齢とリンクした期間という概念がないからである。人生半ばの危機は全く否定的なものと見なされ避けられている。女性は、例えば離婚をしたり、仕事を持ったり、青春期のような行動をとるといった“いつもとちがった”ふるまいをすることで家族の問題や加齢の肉体の兆候に応えるとき、人生半ばの危機を経験するといわれている。危機を解決する方法は、ストレスのレベルを減らしたり、成功した適応を妨害する神経的な問題の治療を行うなどの対処する技術を身につけることである。(翻訳係:出水)

 

 生活構造の発展の危機は、本質的に適応型危機とは異なります。それらは同時期に起こるかもしれませんが、異なった理解や対応をしなければなりません。私たちは、両方を考慮せずに、一方だけを理解することはできません。もし他の方法では問題視される発達期間内で適応型危機が起こるとしたら、ストレスを感じやすい状況は、さらに適応型危機を生み出してしまうようです。このように、発展の危機の強さの度合いは、ストレスを強く感じることによって強化していくようです。

 人が発展の危機のなかに置かれているかどうか、それはどういうものなのかを決定づけるために、私たちは、ストレスを感じる一つの出来事やそれに対する情緒的行動適応のさらに向こう側を見据えなければなりません。私たちは、人間の生活というものをさらに広く考慮し、現在の期間が生活構造発達のなかのどの期間であるかを見極め、その期間で、生活構造を構築し、維持する作業や、終結や、個人化、着手をする過渡的な作業といった、発達すべきモノを持ち続けていく難しさを査定しなければなりません。

 発展の危機は特定の外部のストレスと内部の弱さに影響されますが、それらはただ単にそういう要因からなっているわけではありません。それらは生活構造を形成したり、変化させたりする難しさの多様な原因を持っています。その特定の生活変化の原因は現在ある理論を識別するよりも複雑なのです。つまり、発達期間の成果(特に過渡期の場合)は予測できません。最後に、発展の危機は単に否定的なものではありません。それは利益と損失の両方を併せ持つものかもしれません。将来かかり得る可能性のある損失というのは苦悩や自分自身の痛み、他人に害を与え、生活構造の満足度を下げるものが含まれます。将来かかり得る利益は、自分により適合し、その世界の中でより成長する生活構造の構成要素を含んでいます。(翻訳係:森園)

 

ジェンダー類似性と異質性

この代わりの確立された維持の期間と過渡期の連続は、男性にも女性にもある。このように、私たちが階級や文化、性において学ぶことができる範囲以内で、人間の発達の一般的な構成を供給する。どの性も同じ成人期の生活構造の発達の期間を経験し、それと同様に同じ幼年期、青年期を経験する。これらの期間は人間の発達の一部であり、人間の特質を形成する。それにもかかわらず、彼らは男性と女性でやや違う動きをする。一般的な人間の生活構造の発達の構成の範囲以内で、その性は生活状況、ライフコース、どの発達の期間の経験のしかたにおいて、とても異なる。女性と男性は、生活構造の型が違う。彼らはどの期間でも違った手段や内部と同じくらいの外部の制約などの発達の務めに従事する。性の意味についての考え、人間の歴史の新世紀の流れの女性と男性の位置の点でその発達の見解は性の見解と結合しなければならない。この研究から得られる性の見解は、次の章を紹介されている。

(翻訳係:原田)