社会学の魅力
鹿児島大学法文学部経済情報学科専任講師 片桐資津子
多くの学問分野があるなかで,なぜ社会学者の道を選んだのかと聞かれたら,それはきっと社会学の魅力にとりつかれてしまったからであると答えるだろう。とはいっても,社会学の魅力は,人によって感じ方も違うだろうし,またそれは多側面あると思われる。そこで,ここでは私自身が社会学と出会ったときに感動したもののなかから,きわめて社会学的な概念だと思われるものを一つ選んで紹介してみたい。その概念とは,「自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)」(Merton,R.K.)である。
『新社会学辞典』(有斐閣)をみると,自己成就的予言とは「ある思い込みや信念が予想していた通りの状況が実際に生起する場合,その当時の思い込みや信念をさす概念」であると説明されている。言い換えると,なんの根拠もないような単なる予言ではあるが,これを思い込んでしまうと,その予言通りの事態に自分自身で成就させてしまうこともある。このような現象を「予言の自己成就」という。
例えば,占いを信じてその通りに行動する人などをイメージしてもらえればいい。あなたは晩婚ですねと占い師に言われた場合,実際のところ,ここに科学的根拠はない。だが,もし晩婚だと言われた人がこれを信じ込んで,これから先,自らの人生においてその通りに行動するならば,結婚の機会を逃して本当に晩婚になるということが起きてくるかもしれない。別の例を挙げれば,デマによって銀行が破産するという現象も,自己成就的予言を説明するには分かりやすいだろう。某銀行の経営がどうも危ないらしいという噂が世間に出回るとする。そうすると,当該噂の真偽がどうであれ,某銀行に預金している人々がその噂を聞きつけてなんとなく真に受ける。その結果として,一部の人は,預金をすべておろして別の銀行に預けてしまうという行動をとる。その後,これ契機にして他の多くの預金者も安全にこしたことはないと判断して,これに追随することになるかもしれない。こうして,全く根拠のないデマのせいで,本当に某銀行が経営破綻を起こすこともあり得るわけだ。
ここで注目したいのは,自然科学では予言の自己成就があり得ないという点である。この意味で,予言の自己成就という概念がきわめて社会学らしいものであるといえよう。ではいったいなぜこういう違いが出てくるのか。一つの回答として,社会科学と自然科学とでは,研究対象の性質が決定的に異なっているという点を指摘できよう。社会科学の一学問である社会学の研究対象は,きまぐれだったり気分屋だったりするといったように情緒的・主観的な側面をもった「人間」であるのだから。
だが,自然科学における研究対象はこれとは全く異なる。2000年の秋にノーベル化学賞を受賞した筑波大学の白川英樹博士は,今までは電気を通さないといわれていたプラスチックがじつは電気を通すという事実を発見して世界的に高い評価を受けた。べつに博士は,プラスチックに対して,おまえは電気を通すのだよという予言をして,プラスチック自身にこのことを信じ込ませたわけではない。というのも,プラスチックは情緒的・主観的側面を一切もたない物質であるわけだから。したがって,当然のことながら,博士は「客観的な」実験成果に基づいてこれを成就させた。このように,研究対象の性質が違うということは,客観性,主観性,情緒性などの観点からみた場合,或るときは社会学という学問をきわめて難しいものにし,そしてまた,或るときはこれをきわめて面白いものにもする。私がこんなふうに感じるのは,もともと北海道大学の教養部時代に化学系で学んでいたという自己体験のせいかもしれない。そんなこんなで,私は,社会学という学問に初めて出会ったとき,情緒的・主観的側面をもつ人間を研究対象とすることに対して,戸惑いや不安を感じたのだが,でもだからこそ,不思議に思ってこの学問に惹きつけられたのではなかろうか。こんなふうに自己分析している。
次に,社会学の定義からもこの魅力について簡単に触れておきたい。社会学とは何か。これにはいろんな定義の仕方があるのだが,ここではひとまず「社会現象を人間の生活の共同という視角から研究する社会科学」(『新社会学辞典』,有斐閣)であると定義しておく。つまり,一言でいえば,「社会学とは,人間生活における共同性を科学することである」となるわけで,この定義をみれば,われわれの日常生活や人生そのものと密接な関係があることが分かるし,かつ「身近」であるため馴染みやすい学問らしいということが想像できる。もうちょっと説明すると,社会学にはマクロ社会学とミクロ社会学とがあり,それぞれにとって社会の意味する内容が明確に異なっている。詳細な議論は,理論社会学者の富永健一東大名誉教授が行なっているので関心のある方は読んでみることをお勧めしたい(『社会学講義 人と社会の学』,中公新書,1995)。とにかく,ここで私が言いたいことは,この社会学の「身近」な性質にも魅力を感じざるを得ないということだ。
しかしながら,この魅力は「影」の側面も持ち合わせている。しかも,自分自身の生活や人生を左右しかねないほど恐ろしい「影」なのだ。具体的にいうと,これは「社会学者として人間生活を科学する姿勢」と「生活者として人間生活を営む姿勢」との間に存在するギャップみたいなものである。これはまた,「公(おおやけ)的存在としての社会学者」と「私(わたくし)的存在としての生活者」との関係に対応させることができるかもしれない。だが,ここで強調しておきたいのは,両者の違いを自覚していることが前提になってはじめて,社会学的分析を実行することができるということである。もちろん,両者は共通する部分もあれば,乖離している部分もある。しかし,少なくとも,社会学を社会科学の一領域のなかに位置づけるとするならば,両者の違いを明確に自覚していることが必要条件になってくる。
万一,この前提に無自覚なまま社会学に突き進んでしまうと,「プライベートな自分が,自らの生活や人生において息苦しい状態に陥ってしまう」こともある。というのは,この身近な性質が,かえって公私混同状態に陥らせ,自分の生活や人生が社会学に飲み込まれそうになってしまうことも考えられるからだ。これが社会学の魅力における「影」の部分ではないかと私は考えている。
この点をより深く納得してもらうために,自然科学の場合を考えてもらいたい。たとえば,さっき例に挙げた化学者の白川博士が研究するときは,公私の区別を意識的に考えなくても,その研究対象の性質から自然とこれらを区別している。「公」としての化学の研究に行き詰まったら,「私」としての生活に戻って気分転換することができる。だが,社会学ではこうはいかない。社会学の研究に行き詰まったときには,研究対象の魅力の「影」の部分が露呈することもあり得る。研究がうまくいっているときは問題ない。それどころかむしろ,社会学の魅力である「光」の部分を存分に謳歌することができる。でも,常に研究がうまくいくとは限らないわけで,この点に注意しないと,混乱して研究すること自体が辛くなってしまうこともあるだろう。
そろそろまとめに入りたい。以上が私にとっての「社会学の魅力」である。ただし,この魅力をよりいっそう魅力的にするためには,社会学のもつ「光」と「影」の性質をはっきりと自覚していることが前提になってくる。ある程度の緊張感をもって自己努力しなければ,社会学の魅力を十二分に謳歌することはできない。そのためには,論理的に思考するという営みを通して「自己内対話」を続けるしか道はないだろう。もちろん,ここでいう「自己内対話」とは,「公(おおやけ)的存在としての社会学者」と「私(わたくし)的存在としての生活者」の間でやりとりされるものである。このように考えるならば,自己内対話を通して,最終的に目指すべき理想は,前者にとっての「社会学の学問知の発展」と後者にとっての「人生を生きる者としての生涯発達,もしくは生活者としての自己の成長」とまとめることができる。つまり,社会学という壮大な学問体系に飲み込まれることなくして,生活者としての自己を充実させることができるわけだ。これこそ,まさに私が主張したいと思っている「社会学の魅力」である。尤も,傲慢になっていいはずはなく,社会学者とはいえ,しょせん,「自己成就的予言」から逃れらない存在であり,思い込みや信念をもつ存在に過ぎないのだという「謙虚さ」も決して忘れてはならないのだが。