序章 どんな〈自己表現〉が“社会的資源”になり得るのか

 

 

はじめに

 本稿の目的は、長寿化する女性たちの〈自己表現〉(=「自我」の躍動)を浮き彫りにすることである。すなわち、肉体が老化したとしても、多くの営みのなかから〈生き甲斐〉を見つけ、これによって「生きる喜び」[金子勇1997:43]を感じている女性たちの姿である。これは、高齢女性を、「物理的身体」(=肉体)が老化し、ただ時間的に齢を重ね、死を待つだけの存在ととらえるのではない。逆に、死に近い場所にいるからこそ、死の問題について真剣に考え、ひいては生の問題をも真剣に考え得る存在であるととらえたい。その上で、女性たちが加齢とともに豊かに培ってきた「内面的資質」(=〈生き甲斐〉)を、他者に対して表出する姿、むしろこの一端を示したい。このような〈自己表現〉を行なう姿としては、張り合いを持って暮らす姿、何か楽しみを見つけて生き生きと生活する姿、あるいは何か夢中になれるものに熱中する姿などが挙げられるだろう。

 では、なぜ長寿化において、人は〈生き甲斐〉を持ち、〈自己表現〉を行なうことが可能なのか。どのようなメカニズムでもって、人は長寿化とともに〈自己表現〉を成し得るのだろうか。このメカニズムの解明は、〈自己表現〉としての〈生き甲斐〉を、人生の軌跡(=生活史)によって積み重ねられてきた「内面的資質」の結晶ととらえることにより、可能になるのではないか。したがって、〈生き甲斐〉とは、他者から与えられるものではなく、自らの人生において自らが掴み取っていくものである。この点はきわめて重要である。そこで、このメカニズムをより綿密に把握するために、本稿では、長寿化を次の四つの観点[1]に着目してとらえてみたい。

 

四つの観点

四つの変容

長寿化における姿

身体面

“肉体”における変容

「物理的身体」の老化

自我面

“内面”における変容

「自我」の成熟

社会面

“人間関係”における変容

〈親密な他者〉の変遷

装い面

“外見”における変容

「装い」の変化

 

 これらの観点について、ごく簡単にみておこう。まず第一に、身体面では「物理的身体」の老化がある。これは、長寿化による“肉体”の可逆的異変(=治る病気)や不可逆的異変(=身体障害等の治らない病気)のことを示している。第二に、自我面では「自我」の成熟がある。これは、長寿化のプロセスにおいて様々な経験をし、「“内面”的資質」が熟成されて豊かになってくることを示している。例えば、単なる知識が経験と結びついて、知恵・叡知になるように…。第三に、社会面では“人間関係”における変容(=〈親密な他者〉の変遷)が挙げられる。これは、身近な環境にいる、ごく親しい人との交流を中心に「社会や人との関わりが多いこと、具体的には人との交流が多いこと」[金子勇1995:59]を示す。このような他者の存在があってはじめて、人は〈自己表現〉を行ない、〈生き甲斐〉を感じる(=「自我」を躍動させる)ことができる。以上、三つの観点は、“身体―自我―社会”の関係軸であるといえよう。

 では、残りの一つの観点についてみてみよう。これは、第四の観点、すなわち装い面における「装い」の変化であり、女性たちが長寿化していくなかでの“外見”における変容を示している。万人に共通の“外見”的な老化現象としては、肌のしみ、しわ、たるみ、薄毛・白髪、体脂肪の増加などがあるだろう。また、逆に個人差が出る“外見”的な変容としては、おしゃれを楽しむ/楽しまないこと、身だしなみに気をつける/気をつけないこと、自分らしさを表現する/しないこと、などがあるだろう。まさに、この観点は、本稿におけるオリジナリティの一つであるといえよう。そこで、以下では、装い面について述べてみたい。

 

長寿化における「装い」:身体化された「内面的資質」

 ここでは、第四の観点である装い面について、若干説明してみたい。長寿化と「装い」は、一見何の繋がりもないように思われるだろう。だが、そうではない。それは、「装い」の意味するものが、主に若者に代表されるような、スマートで格好の良いファッションや、あるいは流行モードの最先端を追うようなおしゃれだけに限定されないからである。むしろ、本稿で取り上げたい「装い」とは、老若男女問わず、自分でこういうものを身につけたい/身につけたくないから、身につける/身につけないといったような「装い」なのである。つまり、生活史に根差した、自己決定による「装い」ということが重要なのである。これは身体化された「内面的資質」といえる。これを、より具体的に示すために、私がプレ調査[2]1996.12実施]で出会った、次の二人の女性(栗山町のMさんと苫小牧市のNさん)における「装い」を紹介したい。

 

Mさんは現在90歳で、栗山町の「K園」に入居している。若い頃、Mさんは大きなお屋敷のお嬢様だった。そして、厳しい躾を受けていた。外出するときは、品のいい柄の和服を着て、薄化粧をしていた。そのため、当時は近所でも有名な‘おしゃれさん’だった。

現在でも、Mさんは寮母さんや職員の方たちの間で、おしゃれで有名だ。というのも、Mさんが三度の食事をとるために、いつも化粧をきちんとして、必ず和服に着替えるからだ。寮母さんも、Mさんが和服を着る手伝いには慣れている。最大の楽しみは、月一回、美容院に行くことだ。

 

Nさんは現在70歳で、苫小牧の「T慈生園」で生活している。多少、痴呆気味である。Nさんは、ずっと農業を切り盛りしてきた。当時、農作業のとき頬被りをかぶっていた。その頬被りには、小さなアクセントカラーがついていた。時と場によってNさんは、様々な色の頬被りで楽しんでいた。

現在でも、Nさんは施設で外に見学に行くとき、必ず頬被りをする。色は豊富とはいえないが、今でもそのときの気分に応じて、頬被りの色を変えて被りこなしている。人に何と言われても、Nさんは頬被りをすると緊張感を保つことができる。

 

 これらの両事例から、高齢女性たちが「装い」によって生き生きと「自我」を躍動させている姿であろう。彼女たちの行なう「装い」は、決してファッショナブルで流行を意識したものというわけではない。むしろ、彼女たちの人生の軌跡(=生活史)と密接な関連があるといえよう。したがって、MさんとNさんの「装い」は、どちらが上でどちらが下ということではない。どちらも、唯一無二の生活史から必然的ににじみ出てきた長寿化における「装い」なのである。

 ところで、長寿化における「装い」と関連するものとして、“化粧療法[3]”というものがある。これは、寝たきりや痴呆の高齢女性に、ファンデーションや口紅など化粧を定期的に施すことにより、高齢女性に自尊心を目覚めさせ、アイデンティティを取り戻すことを目的としている。この療法の効果の有無は、どう解釈したらいいのだろうか。それは、長寿化における「装い」という観点からは、次のようにいえるだろう。その高齢女性の生活史の中に答えがある[4]、と。

 このように、長寿化において女性たちが〈生き甲斐〉(=豊かな「内面的資質」)を持ち、〈自己表現〉を行なうことが可能なメカニズムを探るために、本稿では、長寿化における「装い」という観点を導入したいと考えている。だが、この観点は、他の三つの観点も含めて、ミクロに焦点を当てたものである。そこで、高齢社会におけるマクロ的動向に焦点を当て、この動向を踏まえた上で、本稿のテーマを位置づけてみたい。

 

日本における高齢社会のマクロ的動向

 では、ここで日本社会における高齢社会のマクロ的な動向をみていこう。日本は今、超高齢社会をむかえている。数字的には、1998年12月1日(概算値)で、日本の総人口1億2659万人のうち、65歳以上の老年人口は2064万人(総人口の16.3%)であり、75歳以上の老年人口は821万人(総人口の6.5%)である。一方、これより4カ月前の1998年8月1日(確定値)で、総人口は1億2632万人のうち、65歳以上の老年人口は2040万人(総人口の16.1%)であり、75歳以上の老年人口は808万人(総人口の6.4%)である。したがって、高齢化は少子化とセットになって確実に増加している[金子1997]といえよう。男女別の数値も含めて、表に示しておこう。

 男女別にみると、男性に比べて女性の方が長寿であることは一目瞭然である。本稿との関連でいえば、長寿化していくなかで〈自己表現〉としての〈生き甲斐〉を持つに至るメカニズムを探るために、男性ではなく、女性に対象者を絞ったのも、この点と繋がりがある。

 

 

1998年8月1日総人口

(確定値)

1998年12月1日総人口

(概算値)

性別

男性

6185

女性

6447

総計

12632

男性

6195

女性

6464

総計

12659

15歳未満

974

15.7%)

927

14.4%)

1901

15.0%)

977

15.8%)

930

14.4%)

1907

15.1%)

65歳以上

847

13.7%)

1193

18.5%)

2040

16.1%)

858

13.8%)

1206

18.7%)

2064

16.3%)

75歳以上

282

4.6%)

526

8.2%)

808

6.4%)

286

4.6%)

535

8.3%)

821

6.5%)

*単位は万人である。このデータは筆者がインターネットで検索した最新のものである。ただし、これは、総務庁調査による。

 

 この日本人口の急速な高齢化は、世帯にも波及している。厚生省の国立社会保障・人口問題研究所がまとめた「日本の世帯数の将来推計」によると、日本の世帯数全体は、2014年の約4900万世帯をピークに減少に転じるが、世帯主が65歳以上の高齢世帯はその後も増加し続け、2020年には1995年のほぼ2倍に達する見通しであるという。特に、75歳以上の単独世帯は3.3倍に急増するということだ。これは、核家族化と高齢化(少子化と長寿化)が同時進行する姿であるといえよう。この点について、本稿の絡みでいえば、どうなるか。単独世帯の増加は「制度家族」の喪失を意味する。したがって、「制度家族」以外に〈親密な他者〉との良好な「関係性」を創造していくことが急務であるといえる。

 次に、平均寿命についてみておこう。1997年における日本人の平均寿命を男女別に示すと、男性77.19歳、女性83.82歳[厚生省調べ「97年簡易生命表」1997]となる。男女差は6.63歳となっており、過去最大の差であるという。また、世界的にみても、平均寿命は男女とも世界最高であるということだ。

 こういった、日本における高齢社会のマクロ的動向のなか、世界的な動きがあった。それは、国連が1992年の第47回国連総会で、1999年を「国際高齢者年(International Year of Older Persons)」とする決議を採択したことだった。そして、このプログラムは1998年10月1日から実質的にはスタートした。テーマは「すべての世代のための社会をめざして(toward a society for all ages)」である[5]。目的は、1991年の第46回国連総会で採択された「高齢者のための国連原則」を促進し、これを政策及び実際の計画・活動において具体化することである。この総会で採択された原則とは、次の5つである。

 

  自立(independence)

  参加(participation)

  ケア(care)

  自己実現(self-fulfilment)

  尊厳(dignity)

 

である[総務庁 高齢社会対策ホームページによる]。

 この原則をみても明らかなように、本稿における〈自己表現〉は、特に「自己実現(self-fulfilment)」と重なり合うといえよう。これを本稿における文脈で理解すると、次のようになる。すなわち、人は、長寿化における現在までの生活史的時間の流れのなかで、豊かに育み、培ってきた「内面的資質」(言語化された「内面的資質」だけでなく、身体化されたそれ=「装い」をも含む)を表出し、自我を躍動させることが可能であり、その「内面的資質」の蓄積を活用しつつ〈生き甲斐〉を追求し、様々なかたちで〈自己表現〉することが可能である、と。

 こうして、本稿における〈自己表現〉は、高齢社会におけるマクロ的動向の一部と繋がった。長寿化における〈自己表現〉の一端をミクロの視点で明らかにすることは、マクロ的動向における意義とも共鳴し合うといえるだろう。

 

研究課題の設定:〈つよみ〉がプロダクティビティに繋がる可能性を探ること

 ここで、改めて本稿における研究課題の設定を整理してみたい。人は、或る日突然高齢者になるわけではない。日々生活する営みのなかで、身体面、自我面、社会面、そして装い面の四つの観点から、少しづつ変容(=長寿化)していくといえる。そこで、これらの観点から、長寿化する女性たちが、その「自我」を躍動させる(=〈自己表現〉を行なう)姿を浮き彫りにしたい。そのさい、〈自己表現〉が生活史から必然的に引き出されることから、生活史を〈自己表現〉史ととらえ返すことを試みる。これは、いわゆる〈生き甲斐〉(=〈つよみ〉)を持って人生を豊かに謳歌している「人生の達人」[金子1996]の姿ともいえよう。

 だが、〈自己表現〉によって、個々人が〈生き甲斐〉というかたちで表出した、〈つよみ〉としての「内面的資質」は、“社会的資源”との関連で、どのように位置づくのだろうか。この場合の「資源」とは社会学的な語彙であり、「他者への影響力の源泉の総称」[金子1998:5]である[6]と規定する。

 要するに、〈つよみ〉としての「内面的資質」が、単なる“個人的資源”に留まらず、“社会的資源”として還元され得る可能性を明らかにしたいということ、まさにこれが、本稿における最大の研究課題である。これを、プロダクティブ・エイジングに位置づけ直せば、次のようになる。長寿化する女性の〈生き甲斐〉(=〈つよみ〉)が、プロダクティブ・エイジングにおけるプロダクティビティ(=生産性)を生み出す可能性とは何か、と。そこで、本稿においてプロダクティブ・エイジングにおけるプロダクティビティの一端を示してみたい。

 

本論文の構成

 このような課題設定を踏まえて、本論文の構成について述べていこう。本稿の目的は、まず長寿化する女性における〈自己表現〉を、彼女たち一人ひとりの生活史から掴み取ることである。そのための理論装置として、〈自己表現〉についての理論的考察を“身体―自我―社会”の関係軸を中心にして行なうことを試みたい。

 第一章では、長寿化をも射呈に入れた〈自己〉論を、同化概念と異化概念を用いて検討する。そのさい、〈自己〉論を「自我」論と身体論に分けて(自己=自我+身体)、それぞれの長寿化について考察する。一方で「自我」論に関しては、G.H.ミードとE.ゴフマンから学びつつ、長寿化における「自我」論を展開する(第1節)。他方で身体論に関しては、A.シノットのいう「物理的身体」と「社会的身体」の概念を取り入れ、「社会的身体」を「装い」と位置づける(第2節)。その上で、「自我」論と身体論の「関係性」として、長寿化における〈自己〉論を議論する。そして、〈自己〉の構造と機能について述べる(第3節)ことになる。

 第二章では、「装い」を「社会的身体」ととらえ、「装い」についての考察を行なう。そのさい、同化概念と異化概念を媒介に〈自己論〉を接合させる。具体的には、鷲田清一におけるファッション論としての「装い」論と、北山晴一におけるモード論としての「装い」論を展開する。前者からは、ファッション論に長寿化の視点を導入することを提案し(第1節)、後者からは、本稿における「装い」の類型化を理念型として導き出す(第2節)ことになる。また、「装い」と深く関連すると思われる「ジェンダー関係構造」についても考察し、長寿化における「装い」を、プロダクティブ・エイジングに絡めて検討する(第3節)。

 第三章では、第一章と第二章とを踏まえ、〈自己表現〉についての考察を行なう。再度、G.H.ミードとE.ゴフマンに登場してもらい、この偉大な学者たちにおける議論をもとに、〈自己表現〉の構造と機能について検討する(第1節)。例えば、〈自己表現〉の機能について述べると、本稿ではこれを「強さ」を〈つよみ〉に変える機能、あるいは「弱さ」を〈つよみ〉に変える機能であると規定する。次に、〈自己表現〉を行なう「場」と「関係性」について考察する(第2節)。その上で、〈自己表現〉を行なうには、「場」以上に、如何に「関係性」が重要かを示す。そして、〈自己表現〉を行なうには、〈親密な他者〉との良好な「関係性」が必要不可欠であることを指摘する。さらには、「制度家族」に〈親密な他者〉が存在しない場合には、会社や学校といった「公的領域」における〈親密な他者〉(=「友縁家族」)との良好な「関係性」を創造していくことが、これからの超高齢社会には重要であることも述べたい(第3節)。ここまでが、〈自己表現〉についての理論的考察である。

 次に、第四章では、調査の方法と《三つの作業仮説》について述べたい。本章は、いわば理論と実証の“つなぎ”であるといえよう。具体的には、生活史から、如何にして〈自己表現〉を析出するかを考察する(第1節)。そして、本稿における調査の概要(第2節)を述べ、その上で、今までの〈自己表現〉についての理論的考察をすべて踏まえて《三つの作業仮説》を提示する(第3節)。《三つの作業仮説》とは、簡単にいうと次のようになる。【作業仮説1】は〈親密な他者〉に関するものであり、【作業仮説2】は「装い」による〈自己表現〉に関するものであり、そして、【作業仮説3】は〈自己表現〉(=「自我」の躍動)一般に関するものである。

 第五章では、実際に聞き取った、8人分の生活史データを紹介する。第六章では、《三つの作業仮説》を一つづつ分析していく。

 最後に、終章では、考察と結論を検討する。具体的には、生活史から掴み取った〈自己表現〉における〈つよみ〉を、単なる“個人的資源”に留まらず、“社会的資源”として還元され得る可能性を考察したい。

 それでは、最初に、第一章 〈自己論〉から考察していくことにしよう。



[1] これら四つの観点の理論的考察も行なっている。すなわち、身体面については、主に第一章第2節で、自我面については、主に第一章第1節で、社会面については、主に第三章第2節と第3節で、それから装い面については第二章で行なっている。

[2] このプレ調査は、筆者が北海道大学教育学研究科 修士課程に入学する前に、単独で行なったものである。そのさい、カセットテープは回さなかった。当時、筆者は化粧品会社を退職した関係上、高齢女性における“化粧療法”に関心があり、道庁でデータ収集をしていた。そこで、“化粧療法”に特に力を入れている特別養護老人ホームを調べていたところ、苫小牧市の「T慈生園」の存在を知った。また、栗山町の「K園」については、筆者が会社員時代に営業活動を行なうなかで、知り得た施設である。だが「K園」は、特に“化粧療法”に力を入れているわけではない。

[3] 他に、似たような療法として、音楽療法、ペット療法、アトリエ療法、等が挙げられる。

[4] 1996年12月25日、筆者は苫小牧市の「T慈生園」の“化粧療法”とクリスマス・パーティに出席することができた。そこで、筆者は“化粧療法”の有効な高齢女性が意外にも少ないのではないかと感じた。確かに、口紅を塗られ、楽しそうにしている女性もいらっしゃった。だが、逆に嫌がっていらっしゃる女性や、せっかく寮母さんが口紅をつけてくれるからということで、遠慮して我慢なさっている女性も見受けられた。したがって、一律に“化粧療法”を実施しても効果的であるとはいえないだろう。やはり、一人ひとりの女性の生活史と深く関連しているといえよう。

[5] このテーマは、まさに生涯学習のテーマである。

[6] 金子勇によると、「資源」について次のように説明している。「資源(resource)とは、非常に包括的な内容をもっている。おそらく読者の資源認識は、石炭や石油、それに水や森林などの目に見えるものに限定されているであろう。それはもちろん正しいのだが、社会学ではそれらも含みつつも、他者への影響力の源泉を総称して資源と見る」[金子1998:5]という。