ゼミ日誌

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[2001年07月13日]

 今回は、演習の最終日でした。ということで、「家族発達理論と生涯発達理論」のまとめと期末レポートの構想案の発表を行いました。まとめでは、私の残した疑問を松岡君が実際に図式化してまとめていたので、来期のゼミ、もしくは期末レポートの中で、自分が理解した事実をモデル化したいなと思いました。期末レポートの構想案に関しては、今回もホームページに公開するということで、誰が見ても理解ができ、納得することができるような内容に仕上げていきたいと思いました。(文・木之下聖子)

 今期の演習の時間という面では、最後のゼミの時間であった。論文の議論の補足に関しては手を抜いて準備したつもりはなかったが、まだまだ考えるべき余地があったと思う。今期のシングル単位概念にしろ家族発達の概念にしろ、これまでの自分になかったものを吸収すれば、そこから新しい観点や発見があるだろう。そのためにも今回のゼミで気づいたことは、モデル化または図式化することがより理解を深めるだけでなく、自分以外の人に分かってもらうのにも有効的であること。レポートに汲み入れるなり、報告の時にはそこを見てもらいながらスムーズさを図るなり、モデル化することの意味は大きい。広く目を向けることも大切かもしれないが、八方塞がりになる恐れもありうるため、せっかく学んだ概念を活かすことが大切で、最も有効でもある。
各人、このようなある種衝撃的な概念を用いてのアプローチには様々なものが考えられるだろう。それを見てまた新しく学ぶことも楽しみではあるが、その前に自分の報告から内容あるものにしておかなければ許されない。前々からわかっていたことではあるのだが、もう少し時間が欲しい。ともあれ演習として福祉社会学に携わるのはこれであと半年ほどになる。自分の専門として位置付けたいわけだから、今以上に力を入れていかなければならないと感じた。 (文・久保孝平)

 今回は今期最後のゼミと云うことで,家族発達についての論文の総まとめを各自で行い,それに基づいてゼミを進めていった。各自が理解しがたい部分やそれについての意見などを出し合い,ある程度のまとめが出来たと思う。私なりの解釈としては,家族発達は「創発」であり,新しいものへと発達して行くものだと云うことである。この論文を通して,『家族』と云う変数を扱っていく家族発達心理学者やそれをテーマにしている研究者などは本当に思考する事が大変なように感じた。「家族は幻である」という見解を出す研究者も居れば,「家族は普遍的なものである」という研究者もいる。個々の研究に基づく見解であろうが,そのある種【挑戦】的な試みに私は脱帽し,そのような研究報告を目に出来た事だけでも今期の収穫はあったというまとめで終わりたいと思う。(文・松岡剛士)

今期の僕のゼミへの取り組み方は、真面目さに欠けていました。三年生と先生には迷惑をかけました。(文・福森哲大)

[2001年07月06日]

今回は家族発達についての論文の後半部分についての討論だった。まだ討論が足りないということで、次回も討論をすることになった。今回初めてゼミで論文を扱ったが、形式が、レポートや卒論を書くことに、参考になった。(文・福森哲大)

[2001年06月29日]

 都合により(珍しく)休講

[2001年06月22日]

 今回のゼミでは、新しいテキストである『生涯発達の心理学』の3巻家族・社会の中の3章「家族発達理論と生涯発達」の前半部分を読み進めました。今回のテキストは、今までのテキストと違い、論文ということで、自分の知らない言葉が今まで以上にたくさん出てきたので、読むのにかなり苦労をしました。また、今回は一つのことに引っかかってしまったため、全体を見ることができなくなっていた自分がいました。先生も「木を見ないで森を見なさい」とおっしゃられたように、後半部分では全体の筋を見失わないように読み進めたいです。しかし、細かいところ(木の部分)を見ることも時には必要でしょうから、「木」を見る部分と「森」を見る部分のバランスをしっかりとりたいと思います。また、これから多く出てくるであろう自分の知らない言葉なども、できるだけ今日紹介された辞書であらかじめ調べておき、著者の伝えたい言葉の意味を取り違えたままで次回のゼミに臨むようなことは無いようにしたいと思います。(文・木之下聖子)

[2001年06月15日]

今回のゼミは現在のテキストの総括討論と云う形で進められました。各自レジュメを用意し,それぞれが持ってきた疑問点・批判点について討論していきました。各自がそれぞれ違った視点から提起したことが,面白く,内容の深い討論につなげられたと思います。そして,そろそろ学期末レポートのことを各自考え出す頃に差しかかってきました。これから忙しくなると思いますが,皆さん頑張りましょう。(文・松岡剛士)

[2001年06月08日]

今日でシングル単位社会論の読み込みは終了した。レジュメを忘れ、時間をかけ、皆に迷惑をかけてしまった。後一時間、この本について討論しようという意見も出て、来週までこの本を扱うことになった。この本に対する疑問をそれまでにまとめ、意味のある発言をできるように心掛けたい。(文・福森哲大)

[2001年06月01日]

今日は福森さんが参加することができなかったため、急きょ先生が司会を行った。我々ゼミ生たちは、よい手本としながら議論することができた。今回の論点は、二項対立的な観点から何か「脱シングル」的な新しいものが見いだせないかという点と、性(差)を本質主義としてのsexとして捉えるか、genderとして捉えるかを考えた二点であった。
 筆者の立場はフェミニズムでも反フェミニズムでもないが、シングル単位を用いるとフェミニズムの概念が伝わりやすいという所である。フェミニストと目標は同じでこそあれ、多くのフェミニスト達が無意識のうちに家族単位であることも指摘していた。議論自体は、驚くような第三の観点が提唱されたり、男らしさ・女らしさのステレオタイプについて考えたりと活発なものとなった。次回でこのテキストは最後になるが、まとめと、目標としてきた「新たな概念の提唱」のためにも、さらに理解を深めるべきである。(文・久保孝平)

[2001年05月25日]

 今回のゼミは私が報告者となり,何とか議論がうまく運ぶためのお膳立てをしました。(ホントにお膳立てが出来たかどうかは疑問ですが。)議論は前回よりはうまくゼミ生同士で出来ていたと思いましたが,先生からのアドバイスとして「質問者はもっと論点を明確にすること」と。ふと自分はどうだったかと考えさせられました。行き当たりばったりの質問はかえって回答者に恥を欠かせてしまう。そのことを忘れていました。次回からは事前に何か紙にうまくまとめておきたいと思います。(文・松岡剛士)

[2001年05月18日]

 今回のゼミでは、『シングル単位の社会論』のP125〜P173の「シングル単位の具体的内容」について議論をしました。今回議論したところには、シングル単位へ社会変革する際に作り直さなければならない諸制度や、変革するための過渡的具体策が述べてありました。議論の仕方は先週よりはよくなっていたと思いますが、司会の方が報告の後に「では、何か疑問点などはありませんでしたか?」と切り出した時に、つい下を向いてしまい、司会の方に任してしまう自分がいたので、来週は、「では、私から。」と言えるようにしたいなと思いました(四人しかいないのですから…)。ゼミの最後に先生や久保君が言っていたのですが、私もやはりこの本を読んだあとに「シングル単位の落とし穴」なり、「シングル単位の副作用のようなもの」を指摘することができれば、と思いました。そのためにも、この筆者の伊田さんが、現行の家族単位社会および、制度に挑戦的な態度を示したように、私たちも、文脈を理解しつつ、この本にもっと挑戦的な態度をとらなければならないのかなとも思いました。(文・木之下聖子)

[2001年05月11日]

 今回の議論と報告は、前回の残り2-3家族単位の変化の歴史、並びに3章の1シングル単位の原理と全体像の所であった。司会の自分が時間配分と議論の仕方をないがしろにし、前半に議論の態度の見直しを指摘された点があさはかであった。個人的には時間の経過が早く感じられた事から、スムーズで的を射て、なおかつ積極的な議論の仕方を身に付けるべきであると感じた。
 内容は、シングル単位的観点から見た、公的に家族に対する扶養義務関係を、なくすというより家族以外に拡大するという筆者の主張について、子供の権利・教育・さらには憲法上の国民の義務に関してまで発展した議論が中心となった。筆者の主張するように、我が国とその経済が資本主義形態をとってきた事が家族関係を幻想にしたというのなら、改めてシングル単位のもつ意味は大きい。また本日は新たに、このテキストは未来変革にむけたフェミニズムの本であるが、読み深める者として「区別」と「差別」の違いの正しい認識が不可欠であるという、以後の内容理解にも大切な前提を得る事ができた。(文・久保孝平)

[2001年04月27日]

今回のゼミは51-98ページまで、
時間の都合により、81ページまでを討論した
国家領域の家族単位的緒制度の問題点を実例として見ていった
この本の欠陥をゼミの討論の中で発見していけたらいい討論になる
個人的な反省:まだ読み込みと理解が足りない(文・福森哲大)

[2001年04月22日]:臨時ゼミ

 今回,片桐先生の粋な計らい(?)で珍しい日曜日に"臨時ゼミ"という形でゼミがありました。学問をするのに場所も日時も関係なく,学ぶ人間さえいれば良い,という感じでしょうか。学ぶ人間としての"人間像"などと言う話になれば話が広がりすぎてしまうのでこの辺で止めておきましょう。
 それでは今回のゼミの方に戻ります。今回は,4月13日(金)にゼミ生だけで行ったゼミの総括・補講という形で行われました。何故今回のゼミが行われたのか。結論は,論点がずれてしまい,ディスカッション自体が違う方向へ進んでいたからです。やはりまだまだ私達だけではゼミ生だけでは力量不足だったのでしょう。と云うことで,流れとしては復習を兼ねた報告と,そのあとにそれを踏まえてのディスカッション。個々人が前回と違った見解を持てて良い方向へ向かっていったと思います。そして,今期のテキストの読解に不可欠である"公"と"私"の二面性を出す,ということが,若干ですが出来たような気がします。
 これからも,1回1回のゼミ毎に成長していけるよう,問題意識を持って取り組んでいきたいと思います。(文・松岡剛士)

[2001年04月20日]

 健康診断のため休講

[2001年04月13日]

 今期二回目のゼミは福森さんが就職活動のため欠席、先生が出張のため不在という事で、三年生の三人のみで進められました。内容はテキストに沿って「家族」という単位についての常識や役割の上での性差別等に関する筆者の主張を深めるための議論が中心です。初めてゼミ生だけでの演習の時間を終えた正直な気持ちは、自分達がどれだけ毎回先生に頼り、また助けられてきたかという事の痛感の念でした。
 これほど高度なテキストを、自分の中に「公」と「私」という二つの面を置いて冷静に理解しなければなりません。我々ゼミ生の議論はいつもあらぬ方向へ行きかけてしまうところを、先生の指摘で助けてもらっているというのが事実であるため、今日ばかりは全員が自らの意見をまとめ、主張を明確にしつつ、議論のバランスに気を配る事に四苦八苦していました。ただ、それでも中には随所に各人の個性的な考えが見られた場面もあり、僕達にとっては非常に貴重な経験となりました。とにかく筆者は、この本の中で「価値観」をひっくり返そうとしています。それをうまく理解し、アプローチしていくためにもより深い議論と、考える者としての努力がこれからも必要です。
 我々が議論した内容については、先生の指示によりカセットテープに録音したので、これを先生が聞いた後でのコメントに関しては、三人ともが緊張するところですが、反面、疑問点や反省点を客観的に指摘して下さる事を楽しみにして、次回に臨みたいと思います。(文・久保孝平)

[2001年04月06日]

 今日は、今期第一回目のゼミということで、久しぶりにメンバーが集まりました(全員ではありませんでしたが)。最初に、春休みの様子を反省点も含めそれぞれ報告しあいました。まさに、十人十色というようにみんなそれぞれ違う休みの様子でした。
 そして今日は、今期使用するテキスト、『シングル単位の社会論』のはじめにから第1章を読み進めました。今回のテキストは、確かに、先生が重ね重ね言われたとおり「取り扱い要注意」であるテキストで、テキストに書いてある内容を鵜呑みにして理解すると、今後の人生に多大な影響を及ぼすのでは、とテキストを読みながら考えました。しかし、先生の言われた通り、ゼミの中で、もう1人の自分を置きながら読みすすめていくぶんには、参考にすべき考え方もテキストの中に隠されているのでは、とも思いました。そして、今期のゼミでは、前回のゼミで習った私的と公的なことに分けて考えるということに加えて、さらに、素の(プライベートな)自分ともう1人(もしくは1人以上)の自分を置いて考えるという、前回以上に自分の思考の立場をはっきり分ける作業が必要になってくるのではと思いました。
 読み進めるのに苦労をしそうなテキストですが、ゼミの中でも言ったように、男性が著者のフェミニズムに関する本なので、読み進めて行くのが楽しみです。(「取り扱い要注意」ということで不安はもちろんありますが…)(文・木之下聖子)







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