2016年1月15日(金)16:31
南ドイツ新聞Suddeutsche Zeitung
シュテファン・ウルリッヒ記者
国家の最も貴重な宝は主権である。他国に左右されず自らの領土を治める権利があって初めて国家は真の意味で国家となる。主権のない国家はエネルギーのない電池のようなものだ。それゆえ国家は誰かが自らの内政に口を挟んだと感じると、きわめて敏感に反応する。
現在ポーランドがこのような感情を抱いている。その理由は、欧州連合が史上初めて、共同体の基本的価値に違反したという疑いから加盟国に対する手続きを開始したからである。ポーランドの右翼保守派政権はEUに対して申し開きを求められている。というのは議会がポーランドの憲法裁判所とメディアに対する新たな規定を可決したからである。EUによるこの手続きは最終的にポーランドのEU議決権剥奪に至る可能性もある。ポーランドの大統領と首相が国の主権を強く主張し、内政干渉であるとして批判を拒絶しているのも無理はない。
この争いは、EUの国からいかに主権がなくなっているかを示す顕著な例である。イタリアやフランスのような誇り高い国々も、欧州委員会が国の予算案を承認してくれるか戦々恐々とならざるを得ない。ギリシャは国有財産をどう売却し、どう年金制度を改革すべきか、細部に至るまでEUの指示を受けた。ギリシャの国民は主権国民としてEUの緊縮政策に反対したというチプラス首相の左派政権の論拠も、結局何ももたらさなかった。
しかし国家主権は欧州の歴史的な成果のひとつである。三十年戦争に終止符を打った1648年のヴェストファーレンの和議(ウェストファリア条約)は転換点となった。すなわち国家は自由で平等であり、外からの介入なしに内政を司る権利があるという考え方が生まれた。この原則が世界を規定し、およそ200の理論上主権国家とされる国々が世界全土を覆う現在の状況を導いたのだ。
哲学者ジャン・ボダンは「主権の本質のひとつは、それが権力、責務、目標の追求において絶対かつ永久に無制限ということである」と述べたとされる。ワルシャワあるいはアテネの政府はこれを聞いたら笑い出さずにはいられないだろう。だが両国の政府だけでなく、EUの多くの国民が自国の主権が狭められていく状況を苦々しく思っている。なぜならEUはますます統合を強めるからだ。しかしEUは多くの人々の間では久しく国民国家ほどの信頼を(もはや)得てはいない。これが現在、フランスの国民戦線やポーランドの「法と正義」PiSのような大衆迎合的運動がこれほど支持を集めている原因である。彼らは自国の主権を回復するためにEUの弱体化もしくは完全な廃止を望んでいる。
しかし新国家主義者は二つのことを見逃している。第一にEUの権限も加盟国の国民に由来しているということである。欧州の国民がそれぞれの政府を決め、その政府がEU理事会で欧州連合を統治しているのである。第二に旧来の国家至上主義の時代は終わったということである。二度の世界大戦とナチスドイツの文明破壊が示したのは、国家権限にも制約が必要だということである。それゆえ1945年に創設された国連は暴力の禁止を定めている。それゆえ国家の主権を制限する国際機関や諸条約が成立している。多くの欧州の国々はさらに一歩進め、自らの主権の一部を公益のために用いられるよう自発的にEUに移譲した。
背景には戦争の教訓のみならず、今の国家は単独では負担に耐えられないという認識がある。グーグルのような国際的コンツェルンやいわゆる「イスラム国」ISのような神出鬼没のテログループ、あるいは気候変動のような問題は、さらに大きなまとまりに結束するよう各国に強いている。この点でEUは主権を時代に合った形で行使するという先進的な試みである。
新国家主義者が見誤っていることがある。EUを弱体化する者はポーランドやギリシャ、ドイツをも弱体化させるということである。EUの国々は、内政不介入の原則が時代遅れになるほど、互いに依存し合う関係で結ばれている。むしろEUの条約は共通の法に違反する国に介入する義務を定めている。ポーランド政府が法治国家制度を空洞化したり、ギリシャの内閣が国の債務超過を招いたりするならば、もはやポーランドやギリシャだけの問題ではなく、すべての欧州市民に何がしか関わってくるのである。それゆえ欧州市民は口を挟む権利があり、介入する権利があるのだ。このように考えれば現在のEUにおける激しい論争は否定的にばかり見るべきでない。これはすでにヨーロッパ大陸がいかに強く一体感を持っているかを示すものでもあるのだから。
原題:Europa muss sich in Polen einmischen
von Stefan Ulrich (Sueddeutsche Zeitung)